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社長&顧問ブログ

2022.9.9

誉の子

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 戦死した家族と会うために

靖国神社に参拝して 英霊と語る事を 社頭の対面 と言われていたと言う

話でした。

 

決して戦争を美化しては行けませんが

戦時中は 国民を鼓舞するために 色々な事を当時の軍部や政府は

考えていたようです。

 

特に第二次世界大戦前後の時期の日本においては、

その一家から出征した兵士が戦死した家のことを指す表現として

誉の家と言う言葉がありました。

 

戦死者が出た家には、

玄関などの表札と並べて「誉の家」と記した札などを掲げることが

一般的に行なわれていたのです。

戦時中、誉の家は、

周囲から尊敬を集めていたと言われていたのです。

 

周りの方々は 本音ではお気の毒に思っていたのにも関わらず

素晴らしい家だ、 英雄ですね と褒めたたえていたのでしょうね。

 

そして靖国神社に戦争遺児たちを参拝させる式典が、

1939年から43年まで毎年開催されていたそうです。

 

この事から「社頭の対面」と呼ばれていたようです。

この時には内閣総理大臣らによる訓示が行われ、

皇后から「御紋菓」が下賜されていたのです。

この時に残されている写真の一枚に、

「有難さの感涙にむせんだ」場面として、

当時の内閣情報局編輯「写真週報」に掲載されたいました。

 

しかし 戦後 この本人と対談した人の話によりますと、

その時、写真の頰に伝う涙は

情報局担当官の指示で差した目薬によるものだったことが判明したのです、

それ以外の写真も職員が明白に演出していたということが後に分かってきました。

「社頭の対面」と「誉れの子」らは、

プロパガンダというべき情報操作の一環だったという事が分かります。

 

今でも 時々 テレビ番組などで ヤラセが問題になりますが

当時は 国をあげてヤラセを行っていたという事になります。

 

長期化していた戦時下において、戦死者およびその遺族の数はうなぎ登りに増加していました。

それで一家の大黒柱を失い困窮する遺族・遺児に対しては、

一定の生活扶助や「学資補給」が行われていたそうですが、

その範囲や金額は厳格に定められており、

遺族は厳しい生活に耐える他ない場合が多かったようです。

 

しかし、国家は遺児らに対し、

「お父様の名誉を汚さぬよう」「お国の為に尽くせよ」と求めたのでした。

 

更には、「社頭の対面」行事において

遺児らが国家・天皇・軍に対して「感激」と「尽忠報国の精神」の姿を

を華々しく報道する事を、

国民全体の「教化」の手段とされていたようです。

 

 

戦後に行われた「誉れの子」らに対するアンケートによりますと

父や兄が戦死したことを

「毎日さびしさで一杯でした」「無謀な戦争をしたと思います」と語っているのです。

 

戦争する国家は子どもの悲しみさえ冷酷に利用していたことになります。

この悲惨を二度と繰り返してはならないと思います。

 

それら家族を残して 戦地で散って言った英霊もさぞ悔しかっただろうと思います。

彼らも又 家族や仲間とは 戦死した後は、靖国神社で会えると信じて戦っていたのです。

 

この靖国神社のがどのような経緯で建立されたのか????

 

 

 

明日へ続く、、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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