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2026.2.17

豊橋公園の神武天皇像

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 初代天皇の話しでした、、。

 

初代天皇は 神武天皇と言われています、

この神武天皇の銅像が 何故か 豊橋に建立されているのですが、

これは 何故なのか?

の話に進みます、、、、。

 

愛知県豊橋市の豊橋公園、旧吉田城跡の一角に立つ神武天皇の銅像は、

古代東三河の伝承に直接基づくものではありません。

 

むしろこの像は、近代日本が「建国」をどのように語り、

地域社会がそれにどう応答したかを示す近代史の産物です。

 

神武天皇は『古事記』『日本書紀』に記される初代天皇とされ、

明治以降は国家統合の象徴として位置付けられました。

 

明治政府は天皇を中心とする国家理念を明確に打ち出し、

神武天皇即位年を紀元元年とする「皇紀」を制度化します。

 

近代国家としての日本は、自らの歴史を神話にまで遡らせることで、

国民意識の統合を図ったのです。

 

その象徴的頂点が昭和15年、いわゆる皇紀2600年でした。

 

1940年にあたるこの年、全国で奉祝行事が行われ、

神武天皇を顕彰する銅像や記念碑が各地に建立されました。

 

豊橋の銅像も、この全国的な高揚の中で実現したものです。

 

当時の豊橋は単なる地方都市ではありませんでした。

陸軍第十五師団が駐屯する軍都であり、

軍事都市としての色彩を強く帯びていました。

 

軍都において建国の祖を象徴する神武天皇像を建てることは、

精神的支柱を可視化する行為でもありました。

 

銅像建立は国の直接事業というより、

地域有志の奉賛活動によって進められるのが一般的でした。

 

豊橋でも「皇紀二千六百年奉祝会」や地元有力者、商工関係者、青年団体などが中心となり、寄付金を募り、顕彰事業として具体化していきます。

 

全国的にも同様で、地方の名望家や経済人が中心となり、

国家的節目に呼応する形で銅像建立を行う例が多く見られました。

 

像の制作には当時著名な彫刻家が関わることが多く、

国家的象徴にふさわしい威厳ある姿が求められました。

 

豊橋の像も、弓を携え東方を望む姿で表現され、

神話の東征伝承を想起させる構図となっています。

 

設置場所に豊橋公園、すなわち旧吉田城跡が選ばれたことにも意味があります。

 

城跡は近世以来の政治的中心地であり、市民にとって象徴性の高い空間でした。

そこに神武天皇像を置くことで、

古代から近代へと連なる国家の時間軸を可視化する効果があったのです。

 

しかしこの像は戦後、大きな転機を迎えます。

 

終戦後、連合国軍総司令部、いわゆるGHQの占領政策のもと、

国家神道的色彩を帯びた記念碑や銅像は撤去や金属供出の対象となりました。

 

神武天皇像も例外ではなく、多くの都市で失われました。

 

豊橋の像も一度は撤去され、戦前の姿は途絶えます。

ところが戦後しばらくして、地域の意向により再建が進められます。

 

再建にあたっては、市民有志や保存を望む団体の働きかけがありました。

戦前と同じ文脈ではなく、歴史的景観の一部として、

あるいは地域の記憶としての再評価が背景にあったと考えられます。

 

つまり現在立つ像は、戦時体制の象徴というよりも、

近代史を語る歴史資料としての側面を帯びています。

 

歴史学の立場から見れば、神武天皇の実在性は確認されていません。

神話的存在であるという理解が一般的です。

 

しかし近代国家は、神話を政治的・精神的資源として用いました。

重要なのは、神武天皇が実在したかどうかではなく、

近代日本がその存在をどのように意味付けたかです。

 

豊橋公園の銅像は、古代を直接語るものではなく、

昭和初期という時代の国家観、そして軍都豊橋の地域社会が

それにどう応答したかを物語っています。

 

建立に関わった具体的団体や有志の活動は、地方が中央の理念を受け止め、

自らの手で形にした過程を示しています。

 

皇紀2600年という国家的節目、軍都という地域性、そして地元有志の奉賛活動、

この三つが重なり、豊橋に神武天皇像が建てられました。

 

現在この像をどう評価するかは立場によって異なりますが、

少なくとも「なぜここにあるのか」を理解することは、

近代日本の国家形成と地域社会の関係を考える上で重要です。

 

豊橋公園に立つその姿は、神話の時代よりもむしろ、

昭和という近代の時間を静かに語り続けているのです。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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