
EXECUTIVE BLOG
2025.11.14
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 三島由紀夫の話しでした。
今日は彼の作品の中でも 大作といわれている 作品について、、、
三島由紀夫の一番の大作と言われるのは、四部構成の長編小説『豊饒の海』であり、
これは彼自身が「生涯の総決算」として位置づけた特別な作品です。
第一巻『春の雪』第二巻『奔馬』第三巻『暁の寺』第四巻『天人五衰』の四つで構成され、完成した翌日に三島が市ヶ谷で自裁したという事実と結びついて、
この作品は彼の文学人生と実人生をつなぐ象徴的な意味を強く持つものとなりました。
物語は裁判官である本多繁邦の視点から語られ、
彼が若き日に出会った親友の侯爵家子息・松枝清顕と、
その許嫁である綾倉聡子との悲恋を起点として、
同じ魂が時代と姿を変えながら繰り返し現れるのではないかという直感に
導かれて進んでいきます。
第一巻『春の雪』は大正時代の貴族社会が舞台です。
華族たちの屋敷や学習院の学び舎、洋館と和風建築が混じり合う空間の中で、
清顕は病弱で神経質でありながら、どこか冷笑的で自意識の強い青年として描かれます。
聡子は聡明で気品に満ちた令嬢であり、幼いころから清顕と心を通わせてきましたが、
家の事情から皇族への輿入れが決まります。
清顕は本当は聡子を愛していながら、その決定を前に素直に気持ちを伝えられず、
わざと冷たい態度をとってしまい、その態度がかえって聡子の心をかき乱します。
二人は一度は離れかけた運命の中で禁断の逢瀬を重ねるようになりますが、
それは社会の規範を裏切る行為であり、
同時に清顕にとっては「美しく破滅するための準備」のような意味を帯びていきます。
やがて聡子はすべてを投げ出して出家し、清顕も病に倒れ、
雪の降る中でその短い生涯を閉じます。
この巻では、滅びゆく貴族社会の繊細な空気とともに、
「叶えられない恋だからこそ美しい」という三島独特の美学が、
格調高い文章で丁寧に描かれています。
第二巻『奔馬』は昭和初期が舞台で、空気は一転して荒々しい緊張に満ちています。
ここで本多は、清顕の生まれ変わりではないかと感じる青年・飯沼勲と出会います。
勲は神社の宮司の息子として育ち、剣道に秀で、
日々の鍛錬の中で「清く正しい日本」を夢見る青年です。
彼は青年将校らのクーデター未遂事件に心を震わせ、
国家を腐らせている金権政治家や財界人を討つべきだと信じ込んでいきます。
本多は裁判官として勲と関わる中で、その手のひらに清顕と同じ三つのほくろを見つけ、
輪廻の思想に引き寄せられますが、合理主義者として自分を戒めてもいます。
勲は純粋であればあるほど妥協ができず、
ついには少数の仲間とともに要人暗殺計画を企てます。
しかし計画は未然に挫折し、勲は単身で神社に立てこもり、
誰にも見られない中で自刃して果てます。
ここでは、理想に殉じようとする若者の真っすぐすぎる魂と、
その魂を受け止めきれない社会の歪み、
そしてそれを傍観するしかない大人たちの無力さが、
三島自身の国家観や武士道への憧れとも重なりながら描かれています。
第三巻『暁の寺』では、舞台が戦後のタイやインドへと大きく広がり、
物語は一層神秘的な色合いを帯びます。
本多は老境に差しかかり、友人の紹介でタイの王族社会と縁を持つようになります。
そこで出会うのが王女ジン・ジャンです。
彼女は勝ち気で、残酷な遊びも平気でしてしまう一方、
どこか深い孤独を抱えた少女として描かれます。
本多は彼女の中に勲と同じような炎のような気質を感じ、
さらに彼女の身体にまたしても三つのほくろを見つけて転生の確信を強めます。
華麗な寺院、きらびやかな衣装、仏像や僧侶たちが並ぶ光景の中で、
ジン・ジャンは本多の心を翻弄しながら、自分自身の運命からも逃れられずにいます。
物語はやがてインドへと移り、ガンジス川のほとりや寺院での場面を通して、
輪廻や解脱といった仏教思想が強く前面に出てきます。
本多は自分が追いかけ続けてきた「同じ魂」という物語が、本当に絶対的な真理なのか、
それとも自分が意味を求めて作り出した幻想なのか分からなくなり始めます。
ジン・ジャンの行く末は決して明るいものではなく、世界の華やかさとは裏腹に、
人間の生のはかなさが強く印象に残る巻です。
第四巻『天人五衰』では、時代は高度経済成長期の日本に移り、本多は老年に達しています。彼はかつての別荘も購入し直し、過去の記憶にしがみつくように暮らしています。
そんな中で出会うのが少年・安永透です。
透は裕福な家の子として育ち、マナーもよく外見も整っていますが、
何事にも深くコミットしようとせず、情熱も野心も希薄な、
現代的とも言える空虚さをまとった人物として登場します。
本多は透の体にまた三つのほくろを見つけ、ジン・ジャンの転生者であると信じ込み、
養子に近い形で迎え入れようとします。
しかし透は、本多の期待も、過去から続く輪廻の物語も、
どこか遠くから眺めているだけです。
彼はかつての清顕や勲のように激しく燃え上がることもなく、
ジン・ジャンのように周囲を翻弄することもなく、ただ淡々と世界をスルーしていきます。
やがて本多は、若き日に清顕たちと過ごした楠の大木のある別荘をも手放すことになり、
自分の人生を貫いてきたはずの「転生の物語」が、
音を立てて崩れ去っていく感覚を味わいます。
最後に本多が立つ場所は、輪廻が真実だったのかどうかさえ分からない、深い虚無の縁です。
こうして四巻を通して読むと、
大正の貴族文化、昭和初期の軍国的理想主義、戦後の国際化と宗教的模索、
高度成長の豊かさと空虚という、
日本の近代史の流れが一本の太い線で貫かれていることが分かります。
そして清顕、勲、ジン・ジャン、透という四つの転生者と、
本多という観察者の組み合わせを通じて、
三島は
「美はなぜ人を破滅に導くのか」「死は生の完成と言えるのか」
「日本人はどこから来てどこへ向かうのか」
という問いを投げかけています。
さらに『豊饒の海』が特別なのは、作者自身の人生と密接に絡み合っている点です。
三島は若いころから「言葉だけの芸術」にとどまることを嫌い、
鍛え上げた肉体や行動によって自分の美学を証明したいと願っていました。
自衛隊に入って訓練を受けたり、楯の会を結成して独自の活動を行ったのも、
その一環でした。
そうした中で書かれた『豊饒の海』は、単なる長編小説ではなく、
自分がこの世を去る前にどうしても書いておかねばならない
「遺書のような作品」でもあったのです。
第四巻を書き終えた翌日に決行された市ヶ谷での自決は、
多くの議論と批判を呼びましたが、
少なくとも三島自身にとっては、文学と行動を一致させるための最後の一手でした。
その意味で『豊饒の海』のラストに漂う虚無や崩壊感は、
作者自身が感じていた行き止まりと直結しているとも読めます。
文学史の中で見ても、『豊饒の海』は独特の位置にあります。
近代日本文学は、夏目漱石や森鷗外に始まり、
志賀直哉や芥川龍之介、太宰治などの私小説・心理小説の系譜を経て、
戦後には谷崎潤一郎や川端康成、大江健三郎といった
多様な作家が世界に評価されていきました。
その中で三島は、古典や能・歌舞伎の美意識と、西洋的な思考の厳しさ、
さらには肉体と行動へのこだわりを融合させた、非常に特異な存在でした。
『豊饒の海』は、その三島が培ってきたすべての要素、
すなわち伝統と近代、東洋と西洋、精神と肉体、言葉と行動を、
一つの巨大な物語に流し込んだ作品です。
読者はこの四部作を通して、
単に登場人物たちの恋や理想や挫折を追体験するだけではなく、
三島由紀夫という作家そのものの内面、
そして二十世紀の日本という国の心のありように触れることになります。
決して読みやすい軽い作品ではありませんが、一度じっくり向き合うと、
巻を追うごとにテーマが響き合い、
最後のページを閉じたときには、自分自身の生き方や、
この国の歩んできた道にまで思いを巡らせずにはいられなくなるような
深い余韻を残してくれます。
そうした意味で『豊饒の海』は、三島由紀夫の最大の大作であると同時に、
読む人の心に長く問いを投げかけ続ける、稀有な文学だと思います。