
EXECUTIVE BLOG
2026.2.11
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは
教育勅語の話しでした。
今日は この話の続きです、、、、。
教育勅語が生まれた背景を理解するためには、
まず明治という時代がどれほど急激な変化の中にあったかを知る必要があります。
明治維新によって、日本はそれまでの身分制社会を終わらせ、
西洋型の近代国家へと一気に舵を切りました。
政治制度、軍隊、産業、法律、教育、価値観まで、
ほぼすべてが短期間で入れ替わったのです。
この変化は国家にとっては必要なものでしたが、
人々の心の拠り所は急速に失われていきました。
それまでの日本社会では、
儒教的な道徳や家族・地域の慣習が、人々の行動基準として自然に機能していました。
しかし近代化によって、それらは「古いもの」として否定され、
代わりに自由・権利・個人という新しい概念が流れ込んできます。
ところが、制度だけを急いで取り入れても、
人としてどう生きるのか、何を大切にするのかという共通認識がなければ、社会は不安定になります。明治政府が直面したのは、「近代国家をつくる一方で、人の心がばらばらになりかねない」という危機感でした。
このとき必要とされたのが、法律や命令ではなく、
「国として共有できる道徳の軸」でした。
そこでまとめられたのが教育勅語です。
教育勅語は、特定の宗教を押し付けるものでも、
細かな規則を定めるものでもありませんでした。
親を大切にすること、誠実に生きること、学びを社会の役に立てること、
公共のために尽くすことといった、生活の中で誰もが理解できる徳目を、
国家として言葉にしたものだったのです。
つまり教育勅語は、
「急速な近代化の中で、日本社会が道徳的に崩れないための背骨」
として必要とされました。
近代国家の制度と、長く培われてきた生活倫理を
つなぎ止める役割を担っていたと言えます。
この段階では、教育勅語は必ずしも排他的な思想ではなく、
「国民をまとめるための共通言語」に近い存在でした。
しかし、時代が進むにつれて、その位置づけは大きく変質していきます。
日清戦争、日露戦争を経て、日本は軍事国家としての性格を強めていきました。
その過程で、教育勅語は
「道徳の指針」から「国家への忠誠を強調する道具」
へと次第に利用されていきます。
学校では暗唱が義務づけられ、
内容を疑問なく受け入れることが求められるようになりました。
本来は生活倫理を説いた文章であったにもかかわらず、
国家に従うこと、天皇に尽くすことが強調され、個人の内省や判断よりも、
従順さが重んじられる空気が生まれます。
こうして教育勅語は、軍国主義と結び付けられ、
人々の心を一方向に動かす象徴のように扱われるようになっていきました。
そして敗戦を迎えます。
戦争によって多くの命が失われ、社会は深い反省の中に置かれました。
戦後日本が目指したのは、
再び国家の名のもとに個人が犠牲にされることのない社会です。
そのためには、
戦前の国家思想と強く結び付いた象徴を、制度として断ち切る必要がありました。
教育勅語は、その象徴の一つとして否定されることになります。
戦後に教育勅語が否定された理由は、文章の中身そのものよりも、
「それがどのように使われてきたか」にあります。
道徳を教える文書でありながら、批判や解釈の余地を失い、
国家への無条件の服従を正当化する役割を担わされたことが問題視されたのです。
こうして教育勅語は、公式な教育の場から姿を消しました。
ここで重要なのは、
教育勅語が「最初から悪だった」と単純に断じることでも、
「すべて正しかった」と美化することでもありません。
明治という時代には確かに必要とされた側面があり、
同時に、時代の流れの中で危うい使われ方をした歴史もあります。
その両方を理解することが、教育勅語をめぐる議論の出発点になります。
教育勅語は、近代日本が抱えた不安と理想、
そして失敗を映し出す鏡のような存在です。
なぜ生まれ、なぜ否定されたのかを一続きで捉えることによって、
私たちは
「国家と道徳」「個人と社会」の関係を、
今の時代に改めて考える手がかりを得ることができるのです。