EXECUTIVE BLOG
2019.10.18
高光産業株式会社 妹尾八郎です。
昨日からの続きです
その前からもずっと書いてますが 常識に囚われない生き方をしてきた事を
書いてまして
そろそろ ITへの道に戻らないといけないのですが、
ITとは無縁の私は 一生パソコンとか 情報化社会から逃げきろうと
考えていましたが 時代の流れがそれを許さないことに気づき
逃げるのではなく向かって行こうと考えたのが 昨日までの話でした。
そこで 話が又逸れてしまい
逃げないことで生き残った事例が 関ヶ原の戦いにあると。
それが 十数万の東軍に囲まれた 西軍の薩摩藩軍でした。
東軍十数万に対して薩摩藩軍1500人足らず。
後世の戦争戦略家が まず関ヶ原の戦いの布陣を見て
これは西軍が勝っただろうと口をそろえて言ったのですが
結果は東軍が勝ちましたよね
これは 家康の権謀術策が功を奏して 西軍に裏切りが出たことによる結果です。
それで西軍は壊滅状態になるのですが 薩摩軍は最後まで耐えて
最後に1500人が残ったのでした。
普通であれば 十万の敵を前に対峙したのならば 敵に背を向けて逃げますよね
我々は 現代から過去を見てますから 明治維新で 薩長が天下を取った事を知っています。
この時 薩摩が全滅していたら 明治維新は成功していなかったかもしれないのですが
生き残ったのですね。
ここで 近代の研究家もあり得ないと言う戦法を薩摩軍はとったのでした。
その先方は 常識では背を向けて逃げるところを
あろうことか 敵に向かって逃げて行ったのです。
敵に向かって逃げるとはどういうことか 敵に向かうのだから戦ったのだろうと
考えるのが常識ですよね
しかし 違うのです 敵に向かって逃げたのです。
背を向けて逃げてしまうと追いつかれて全滅する可能性が高かったのですが
逃げ道は 敵の後方になるとわかり そのためには 敵の中央を突破しなければならなかったのです
その中央には 家康率いる徳川軍が居るのです
薩摩軍は その徳川軍に向けて逃げるために突進したのです。
周りは敵だらけです
薩摩軍は 島津の殿様をとにかく鹿児島まで逃がす戦法を考え
数十人の武士が 殿様を囲みながら前へ進むのですが 周りの武士がやられると次の
武士たちが殿様を囲み前へ進む戦法で
自らの命は殿様の為になげうって とにかく一人の殿様を逃がすために
戦ったのでした
最後に突破した時は 数人の部下に守られながら後方へ逃げられてそのまま薩摩へ
命からがら帰還したのでした。
この時に 徳川をはじめ東軍から薩摩武士は命知らずであることを改めて
知ることになるのです。
この常識外れの戦法で生き残ったわけです。
常識の囚われて背を向けて逃げていたら たとえ生き残ったとしても
軟弱な薩摩と言われるところですし 薩摩藩取り潰しになっていたことでしょう
この勇猛果敢な薩摩がその後明治維新の原動力になるのです。
その後徳川幕府は、、
どういう政策をとろうとしたのか??
常識に囚われない薩摩は他にも
明日に続く