EXECUTIVE BLOG
2024.8.26
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 江戸幕府が 米国との交渉にどのような手段を
使って、英語を日本語に訳していたのか? と言う話でした。
しかし いちいち オランダ語を介しての通訳ですと 面倒ですし
意思がきちんと通じているのか?? と言う事も問題になります。
それで 江戸幕府は 米国帰りのジョン万次郎を使う事になるのです。
この時に歴史の流れと言う事を強く感じるのです
必要な時に必要な人物がそこに居たんだなと 後から考えると
そのように感じるのです。
あの時あの人が居なかったら 歴史や運命は変わっていただろうなと、、。
坂本龍馬があの時いなければ 薩長同盟は生まれなかったとか、
東郷平八郎が居なかったら日露戦争は負けていて 日本はロシアの支配を受けていたかも
しれないとか、、、
他にも色々出てきます。
今回のペリーの話でも
ペリー来航の60年以上前の 仙台藩 林子平が居なかったら 八丈島は米国領土となっていたし そのまま 日本が米国の属国になるかもしれなかったとかです。
そして ジョン万次郎のおかげで その後の通訳も いちいちオランダ語を介さずに
済む事になるのですが
前にも書きましたが 何故 万次郎は英語を話せるか???
勿論 アメリカで学んでいて 日本に帰国したから 話せると言う事になっていますが
何故 アメリカに行けたのか???
それは 漁の途中に遭難して 米国船に助けられ そのまま 米国に行ったから と
言う事をご存知の方も多いかと思います。
しかし その元となる話をご存知の方は少ないかもしれません
この話は 随分前にブログで書いていますので 既にご承知のかたも居るかと
思いますが
今一度 そのあたりの話を書くと
そもそも 万次郎は 貧乏な家庭に生まれ ある所へ養子に出されたのです
しかし そこで 酷い虐めにあったために 泳いで逃げ出したのでした
そこで辿りついたのが 中浜村だったのです
そういう事もあり 後に 名前が 中浜万次郎となるのですが
ここで 万次郎を助けた方の家で暮らす事になり その方の漁の手伝いで
海に出ていたのです
その時に 嵐にあって 無人島に命からがら辿り着き 助けを待っていたところに
アメリカの捕鯨船が通りかかって 彼らを見つけて助けてくれたのです、
もし アメリカが今の様に捕鯨禁止であれば 日本近海まで大型船は来てなかったのですが そうではなかったからこそ 助ける事が出来たのです。
その時の 船の名前が ジョンホーランド号でしたから
それで 万次郎は ジョン万次郎と呼ばれる事になるのですが
この時の 船長が 優しくまだ少年だった万次郎を我が子の様に可愛がり
アメリカに連れて帰り そこで 学校にも通わせる事になるのです。
それからの話は まだまだ長くなりますが
簡単に言うと 万次郎が貧乏な家庭に生まれ養子に出されて そこで 虐めがあった為に
逃げ出した先の人に 可愛がられ 漁にでて そこで 嵐に遭い
たまたま通りがかった船が アメリカの捕鯨船で 優しい船長だったから 米国で
学ぶことが出来たと言う事なのです。
この一連の流れが無ければ 幕府にも取り立てられなかったのですから
歴史を俯瞰して見ると 色々面白い事がわかりますが
何か 目に見えぬ誰かが 意図的に仕組んでいるのでは? と感じてしまいます。
これだけではありませんね その後何故彼は日本に帰れたのか?
鎖国の日本で 一度海外に出た人間は処刑されてしまうような時代なのに
何故 命を繋ぐことが出来たのか????
まだまだ 興味が湧いて来ると思います
が
それらの話は
明日に続く、、、。