EXECUTIVE BLOG
2024.10.21
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
宿駅伝馬制度の話しから 駅伝の話になりました。
しかし 最初の駅伝が 東海道五十三次を 関東と関西に分かれて
走ったのですから 凄い企画だったと思います。
今の様な制度ではないのですから 道中の水や食料などの応援はどうしていたのでしょうか?と興味が湧きますね、、。
この駅伝1チームは23名、昼夜を問わず全長516kmを走り切るという大イベントだったのです。
駅伝の“たすきをつなぐ”伝統もこのときに始まり、
関東組は紫、関西組は赤の襷をかけたのです。
当時は、途中の木曽川や天竜川にはまだ橋がかかっておらず、
選手は渡し船で川を渡ったそうで、昔らしいのんびりとした雰囲気が伝わってきます。
とはいえ、三島〜箱根間の13km区間では標高800mを駆け上る元祖『箱根の山上り』の難所もありました。
選手たちが走ったのはちょうど夜中だったことから、
近所の住民が道に沿って松明をともしたそうです。
前代未聞のイベントにそんな協力が得られたことは、今の箱根駅伝の大人気を予兆しているようにも思えますね。
実際、選手が東京中心部に近づくと道は現代と同じように観衆でにぎわい、
品川周辺は市電も通れないほどの盛況だったそうです。
関東組のアンカーを務めた金栗四三も、先導の自動車が人垣をかき分ける中をなんとか走る有様だった。
そしてスタートから約44時間が経過した29日の昼前に金栗が上野不忍池のゴールに飛び込み、初の駅伝大会の勝敗が決したと言うことになります。
この3年後に 今では 正月の風物詩の 箱根駅伝が始まります。
この箱根駅伝の話は
明日へ続く、、。