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社長&顧問ブログ

2022.5.8

長州と会津

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

 

昨日までは 保科正之の人物についてでした。

 

そもそも何故保科正之の話になったのかを整理してみますと

野口英世が会津藩出身の学者だったと言う話から

会津と長州は仲が悪いと言う話になって 何故悪いか?を知るためには

三代将軍の腹違いの弟である 保科正之を知らなければ仲が悪くなった原因が分からないと思うので 保科正之の話になってしまってました。

 

前に書きましたように 保科正之は 二代将軍秀忠と女中お静から産まれた子でした。

正之は母親であるお静から 子供のころから きつく言われていたのが

将軍家にどんな事があっても 将軍を裏切るような事はしてはならないという事なのです。

 

それで 家光から認められて家臣に取り立てられても 絶対に将軍の弟だという事は

区に出さず 一家臣として仕えていたのです。

 

そして 初代会津藩藩主となった時に家訓を残すのですが この家訓が子孫を縛ることになり 幕末の悲劇を産むことになるのですが

200年も前の言葉が 維新の時に影響するなどは誰も想像していなかったと思います。

 

しかし考えてみますと 関ヶ原の戦いで 徳川家は将軍家となるのですが

この時に コテンパにやられたのが 長州であり 薩摩だったのです。

長州は 100万石の大大名から 36万石に減らされ しかも萩に追いやられてしまうのです。

萩と言う町を地図で見れば分かりますが 両方を川挟まれた いわゆる中洲のような場所です。

関ヶ原で負けた長州藩は この恨みを 250年後に果たす事になるのです。

関ヶ原以降 毎年正月の挨拶は 殿様に対して 江戸総攻撃の準備が整いましたと

言って それを聞いた殿様は 「まだ早い」 と答えていたそうですが

250年間ずっと 徳川家に恨みを抱き続けていたと言う事になるのです。

 

そして その標的になってしまったのが 会津藩だったと言うわけです。

 

で その会津藩に残した家訓は何か? になるのですが

 

その前に もう少し保科正之についてになります 長州藩から恨まれていた会津藩の

初代藩主は さぞかし非人道的な人だったと思いそうですが

そうではなく 素晴らしい人だったのです

 

で 前にも書きましたが 江戸城の天守閣の話に少し触れたいと思います。

 

保科正之は民のための政治を貫いた人だという事がわかる逸話です。

 

1657年の明暦の大火がありました。

江戸の6割が焼け、10万人以上の死者を出した大火事だったのです。

 

火は江戸城にも及び、江戸城の天守閣もこの時に焼け落ちてしまったのです。

火が収まると、正之は焼け出された人々のために炊き出しを行いました。

さらに火事で家を失った人々に再建費として16万両を捻出したのです。

 

これは会津藩の年収に匹敵する金額です。

幕府の御金蔵がなくなってしまうと反対する人もいましたが、

蓄えとはこのようなときに下々へ施し、民を安心させるためのもの

と言い正之は反対派を説得したのです。

 

焼けてしまった江戸城天守閣再建の話しが出た時も、

 

「いまはかようの儀に国家の財を費やすべき時にあらず」

と反対します。

 

今までの戦国時代とは違い、「天下とは民があってこそ」だと言うことを

正之は分かっていたのです。

 

まだまだ武断派が多かったであろう時に、柔軟な考えを持てる

頭の柔らかい人だったのだと思われます。

 

こう言うところが名君と言われているのです。

 

で この名君が残した家訓とは何か????

ですが

 

この話は

 

明日へ続く、、、、、。

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