EXECUTIVE BLOG
2019.11.4
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは なぜ 山形の庄内に西郷神社があるのかと
言う話でしたね。
荘内の人々が 西郷隆盛の戊辰戦争で敗れた荘内藩に対して
寛大な処置をとったのかの表向きの理由を書きました。
長州藩が会津藩に対して行った処遇に比べれば 薩摩藩の処置は
荘内の人からすれば仏様の様に西郷さんを見ていたのでしょう。
少し長州と会津の話をすると
いまだに 会津の人は長州を許しておらず
だいたい声をそろえて言うのは
仲良くはするが仲直りはしないと言うのです。
東北大震災の後に 山口商工会議所のメンバーが 会津を訪れ
激励をして 帰り際に握手を求めようとしたときに
会津の人は握手を拒否したと言う話も残っています。
これくらい 恨みが根深い事をしたのが長州だったのですね。
そこで 今回の薩摩と荘内の話になりますが
ここは 歴史研究ブログではないので 簡単にしか書きませんが
そもそも 荘内藩の藩主は酒田家ですね
酒田と言えば 徳川四天王の一人です。
徳川四天王とは
徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称です。
そして 酒井家は 代々老中を務める名門譜代ですよね
そして
戊辰戦争が始まったときに
西郷隆盛は 江戸総攻撃をかけたかった張本人です。
しかし 将軍徳川慶喜は 官軍に対して恭順を誓うので
西郷は江戸攻撃ができなかったのです。
それで 江戸総攻撃の口実が欲しかった西郷は 浪人などを雇い
江戸のあちこちで放火をするのです。
この時 江戸を守っていた今でいう警察みたいなものを
酒井藩が受け持っていたのです。
それで 酒井の警護隊が その浪人を追いかけてみると 皆 薩摩藩邸に
逃げ込むのです。
そこで 警護隊が薩摩藩邸を燃やしてしまうのです。
これは 将軍慶喜が一番恐れていたのですが
この一件で 西郷は口実を見つけて江戸総攻撃を開始すべく
官軍を江戸に向かわせるのです。
この後は 皆さんご存知の通り 江戸城開場になるのです。
皆さんご存知の姫路の姫路城の藩主も酒田で 荘内の酒田とは親戚筋なんですよ。
それから 幕末は 幕府の力も弱まってきていて 本来であれば
幕府の命令は絶対なのです。
幕府の命令一つで 藩も引っ越しをさせられるのです。
荘内藩もご多分に漏れず 幕府からの移転を命じられるのですが
驚くべきことが起きるのです
なんと荘内藩はこの命令を聞かず 荘内にとどまる事を決め込んだのです。
本来であれば 幕府命令違反と言うことで お家取り潰しになるのですが
それも無く 荘内に居続ける事なんですが
なんとなく 国内では 幕府の威厳が落ちてるなと言う感じになって行くのです。
これらの事もあり
幕府を倒す引き金を引いた一因に 荘内藩が絡んでいたのですね
それを 西郷さんは知っていて
ある意味 自分の方針を裏で支えたのが 荘内藩であると感じていて
戊辰戦争で 荘内藩が敗れた時にこれ以上の責めはあまりに可哀そうだと
感じたのではないかと言う説もあるのです。
荘内藩の処分に関しても、西郷はもう戦が決して帰順しているのだから荘内は旧領地にそのまま安堵させようと官軍(総督府)の中で主張したところ、長州の大村益次郎(おおむら ますじろう)が強硬に反対をしたようです。
当時臨席していた土佐藩士佐々木高行(ささき たかゆき)によると、「公明正大な西郷と、陰有り後ろ暗き人の多き長州人」と表現したともいわれています。
やたら敵方責任者を処刑にしたがる人間が多い長州人は、文久年間の京都での”狂気の暗殺行動”そのままに、まるで異民族に対するように敵対者を殺すことが当然と考えているフシがあり、ここに戦闘員が武士階級が多い薩摩と農民階級が多い長州との落差が垣間見えるところです。
が これらの事も西郷隆盛の計算だったかもしれませんね、
しかしこのような長州の件があったので
薩摩の西郷のおかげで寛大な処置を頂けたと荘内の人々は考えたようで
その後の 西郷隆盛復権活動を行うのですね
歴史は 見方を変えれば変わるものです。
さあ
こんな薩摩藩で育った
東郷平八郎の話にもどります。
ロシアは 日本海へ向けてバリティック艦隊が近づいてきます
これを
あり得ない戦法で破るのです
その戦法とは
明日に続く、