
EXECUTIVE BLOG
2025.8.25
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 戦後の闇市の話しでした。
お米も自由に買えない時代があったのです。
今日は この話の続きになります。
戦後しばらくの日本では、
お米は誰もが好きな時に好きなだけ買えるものではありませんでした。
国が厳しく管理し、配給制のもとでしか手に入らなかったのです。
戦時中から続いた食料不足が背景にあり、
国民一人ひとりに「米穀手帳」という小さな帳面が配られ、
それを持って配給所へ行き、
決められた量のお米を買うという仕組みになっていました。
子どもたちにとっては
「なぜスーパーでお米が売られていないのだろう」
と素朴に不思議に思う時代でもあったのです。
しかし配給だけでは必要な量が足りず、人々は闇市に頼らざるを得ない状況でした。
戦後の混乱期には、街角のあちこちに闇市が立ち、
正規の配給では手に入らない米や野菜、衣類などが売られました。
そこに並ぶ米はもちろん食管法違反の「闇米」であり、
本来は農家が政府に全量を供出しなければならない米を抜け道で流したものです。
取り締まりは厳しく、闇米を売買した業者や買った人が摘発され、
新聞に「食管法違反で逮捕」といった記事が載ることもありました。
実際、農家が供出を怠ったり、少しでも多く手元に残そうとした場合には
罰金や懲役刑が科されることもあり、
農家にとっても消費者にとっても「米」は
常に法律と監視の目に縛られた存在だったのです。
それでも、
人々が生きるために闇米に頼らざるを得なかった現実は厳しく、
裁判になった事件も少なくありませんでした。
やがて昭和30年代から経済成長が進み、農業生産が安定してくると、
お米の不足は解消されていきます。
それどころか今度は米が余るようになり、
政府は減反政策を導入するまでになりました。
米が不足していた時代に作られた食管法は、
米余りの時代には不釣り合いな制度となっていったのです。
農家にとっては
「せっかく作った米を全部政府に安く買い上げられてしまうのは納得がいかない」
という不満が膨らみ、
消費者にとっても
「もっと美味しい米を自由に選びたい」という声が高まりました。
そうした中で登場したのが「自主流通米」です。
昭和46年(1971年)に導入されたこの制度は、
農家が作った米を政府を通さず市場に流すことを一部認める仕組みでした。
当初は「国の統制に穴を開ける制度ではないか」
との議論もありましたが、
消費者のニーズに応えるためやむを得ない措置とされました。
自主流通米が市場に出た時、
多くの新聞は「米に自由化の波」「ブランド米が市場に」
という見出しで報じました。
スーパーに並ぶ米袋の写真が掲載され、
消費者がそれを手に取って
「これまでの配給米よりも粒が大きくて美味しそうだ」
と語る声や
「値段は少し高いが、自分で選べるのが嬉しい」
といった声が記事になりました。
農家の側からも
「ようやく自分の作った米を正当に評価してもらえる」
「名前を出して売れることでやる気が出る」
といった期待の声が紹介されました。
一方で
「結局は一部の良質米だけが自主流通に回され、その他は政府米のままではないか」
との批判もありました。
実際に当時の自主流通米は、
魚沼産コシヒカリやササニシキなど産地や品質で評価の高い銘柄米が中心で、
政府米と比べると価格は割高でした。
それでも消費者は
「やはり味が違う」「ご飯がご馳走になった」と支持し、
新聞や雑誌でも
「美味しい米の見分け方」といった特集が組まれるようになりました。
米が単なる主食から「選ぶもの」「楽しむもの」へと意識が変わっていったのは、
この自主流通米の登場が大きなきっかけでした。
しかし制度の根本にはまだ食管法があり、
農家や流通業者が完全に自由に米を売買できるわけではありませんでした。
あくまで政府の枠の中で限定的に認められた流通であり、
自由化とは程遠いものでした。
それでも「スーパーに米が並んでいる」という光景は戦後世代にとっては新鮮であり、
消費者文化の変化を象徴する出来事でもあったのです。
その後、
平成に入りバブル崩壊後の経済情勢や農業政策の転換も重なり、
食管法はますます時代遅れの存在になっていきました。
政府が余った米を高値で買い上げ、倉庫に保管し、
時には海外援助として放出するという仕組みは、
財政に大きな負担をかけていました。
また消費者の嗜好が多様化し、
外食やパン、麺類に食生活がシフトしていったこともあり
「米余り」は深刻化しました。
この矛盾を解消するため、平成7年(1995年)に食糧管理法は廃止され、
新たに食糧法が施行されました。
これによって米は完全に自由流通となり、
農家と消費者の間をつなぐ市場が本格的に動き出したのです。
今日ではスーパーに行けば多種多様な銘柄米が並び、
値段や産地、栽培方法を比較しながら好きなものを自由に選べます。
それは当たり前のことのように思えますが、
実は長い統制の歴史と、農家や消費者、行政の間での葛藤の積み重ねの結果です。
戦後の闇市から始まり、食管法違反で処罰される農家や業者がいた時代を経て、
自主流通米という一筋の光が差し、最終的に完全自由化へと至ったのです。
振り返れば、
食管法は戦後の飢餓を防ぎ
国民の最低限の食料を守るために必要不可欠な制度でした。
しかし同時に、自由を制限し矛盾や不満を生み出した制度でもありました。
農家にとっては米を自由に売れない苦しみ、
消費者にとっては味や質を選べない不便さがありました。
自主流通米の登場を歓迎する声や報道が大きく広がったのは、
それまでの制約から解き放たれたいという国民の思いの表れでもあったのです。
いま私たちが何気なくスーパーで米を買えるという日常は、
実はこのような歴史を経て実現したものです。
お米は単なる主食ではなく、
日本人の暮らしや政策、社会の変化を映す鏡でもありました。
戦後から平成にかけての食管法の歩みを知ることは、
食のありがたみを改めて感じ、
過去の苦労や制度の意味を理解する上で大切なことだと言えるでしょう。
明日は 令和の米不足に関する話に、、
続くのか????