EXECUTIVE BLOG
2024.10.20
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
宿駅伝馬制度の制度の話しから
本来は 53次ではなく57次だと言う話でした。
これに は 江戸幕府の江戸防衛の大きな戦略が隠されていたのですが
その話の続きに行く前に、、、、
宿駅伝馬制度の話をしると 現代版の駅伝を思い浮かんでしまいますね
その中でも 箱根駅伝は 正月の風物詩になっています。
この宿駅伝馬制度とスポーツの駅伝は関係があるのか??
について、、、
日本で初めて駅伝が行われたのは1917年で、この年はあのロシア革命が起きた年です。
そのときの大会名が「東京奠都五十年奉祝東海道五十三次駅伝競走」という名前だったのです。
そしてこの競争の名付け親は、神宮皇學館の武田千代三郎さんと言われています。
武田千代三郎は我が福岡県の柳川市において、
柳河藩士・武田道夫の次男として誕生しました。
その後
第一高等学校を卒業後、東京帝國大學法科大学法律学科に入学して、
東京帝國大學法科大学法律学科に在学中は、
日本に近代スポーツを伝えたとされるイギリス人宣教師からスポーツ論を学んだとされ、後にスポーツ哲学、スポーツ科学に関する「心身鍛練少年競技運動」、「理論実験競技運動」を出版している方です、
で
先にも書いたように江戸時代の東海道五十三次では、宿駅ごとに「駅馬」と呼ばれる馬が配置されて、交通手段として使われていたのです。
そして、乗り継ぎ用の馬として「伝馬」というものが公用の旅行に使われたり、
民間の輸送用としても活躍していたといわれています。
江戸時代には、馬が人や荷物を運ぶ役割をしていたので 当然と言えば当然ですが、、、
この駅制と言われる「駅馬」と「伝馬」からヒントを得て、幹線道を人が走るリレーのことを「駅伝」と命名したのではないかと推測されているのです。
そもそも駅伝というのは長距離リレーのことを言うのですが、
リレーと聞くとバトンを思い浮かべますが、
駅伝はバトンではなくたすきを使っていますね、、、、
これにも理由があると言われていて駅伝の由来と関係していると言われているんです。
駅制が設けられていた時代は、使者が馬を乗り継ぎ手紙や荷物を運んでいました。
着物を着て馬に乗るのは、想像しただけでもなんか乗りづらそうですよね。
当時は馬に乗るのに着物が邪魔にならないように襷(たすき)をかけていたとされ、
その名残で現代の駅伝でもたすきが使われているという説があるのですよ。
で最初の駅伝と言われている東京奠都五十年奉祝東海道五十三次駅伝競走は
東京奠都50周年記念、つまり明治維新によって江戸が東京とされ、
都として定められてから50年の記念行事として開催された競争だったのです。
この時に関西組、関東組に分けられ京都の三条大橋から東京の上野不忍池までの約508㎞を昼夜問わず走り続けるといった競技を行い、
この時、関東組のアンカーを務めたのはストックホルムオリンピックに出場した金栗四三とされています。
この時の勝負は 関東組が勝ったのですが
この時から たすきを繋ぐと言う言葉が生まれたようです。
この駅伝発祥の碑は 京都三条大橋にあります。
近くを通られましたら是非探してみてください、、。
と言うことで 駅伝の話に逸れましたが
本来の東海道の話し 終点は 京都か大阪か?? 何故???
の話は
明日へ続く、、、。