
EXECUTIVE BLOG
2025.11.8
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
今日は 朝倉文夫の師匠でもある
高村光太郎の話になります、、、、。
高村光太郎は、明治十六年一八八三年に東京の下谷西町、現在の台東区に生まれました。
父は明治の代表的な仏師であり彫刻家の高村光雲で
、幼い頃から木の香りや彫刻刀の音に包まれて育ちました。
家の中では常に作品が生まれ、芸術が生活の一部となっていました。
その環境の中で光太郎は自然と造形に興味を持ち、少年の頃から彫刻家を志しました。
十四歳で東京美術学校に入学し、彫刻を専門に学びますが、
当時の日本の美術界は伝統的で保守的な風潮が強く、
彼の心の中には次第に新しい芸術を求める思いが芽生えていきました。
二十三歳のとき、もっと自由な芸術を学びたいという情熱から欧米へ留学します。
アメリカ、ロンドン、パリなどを巡り、近代彫刻の巨匠ロダンの作品に出会いました。
ロダンの彫刻が放つ生命感と精神の躍動に深い感銘を受け、
彼の中で「形を超えて心を刻む」という芸術観が確立されていったのです。
帰国後の光太郎は、父の光雲とは異なる新しい彫刻を志し、
東京美術学校で後進の指導にもあたりました。
その中に、後に「東洋のロダン」と称されることになる朝倉文夫がいました。
朝倉は師である光太郎の指導を受け、技術だけでなく芸術に対する哲学を学びました。
光太郎は彫刻を単なる形の表現と考えず、そこに人間の魂を刻み込むことを求めました。
「作品は心の影である」と語り、
手の動きひとつにも生命の鼓動を感じ取るよう指導しました。
朝倉はその精神を受け継ぎ、
写実的な表現の中に人間の生きる力を刻む独自の作風を確立しました。
二人の関係は単なる師弟ではなく、互いを高め合う芸術的同志のようなものでした。
光太郎の「内面を彫る」という思想は、
朝倉の「生きている彫刻」という理念に影響を与え、
後に日本彫刻界に新しい潮流を生み出しました。
光太郎自身も彫刻だけでなく、詩の世界でも才能を発揮しました。
代表作『道程』では、
「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」という言葉を残しています。
この詩は、
誰も歩いたことのない芸術の道を自ら切り拓こうとした彼の信念を象徴しています。
また、妻の智恵子への深い愛を詩にした『智恵子抄』では、
芸術家としてだけでなく、一人の人間としての愛と苦悩が描かれています。
智恵子が心の病に苦しむ中、光太郎は彼女を支え、
その体験が人間の尊厳や命の輝きを見つめ直す契機となりました。
彼の作品には、愛と死、苦悩と救いが静かに交錯しています。
戦争の時代には一時的に国家の制作にも関わりますが、敗戦後は東京を離れ、
岩手県花巻の山里に移り住みます。
そこでは畑を耕し、自給自足の生活を送りながら自然と向き合いました。
彼はその地で「生きることそのものが芸術だ」と悟り、
木や石、土と語らうようにして作品を生み出しました。
都会の喧騒を離れた静かな暮らしの中で、彼の心はさらに深く、柔らかくなっていきました。
朝倉文夫もまた、谷中のアトリエで人間と動物の共生をテーマに作品を作り続けました。
特に猫をモチーフにした作品群は、命あるものへの慈しみを感じさせ、
そこにも師である光太郎の「生命への眼差し」が受け継がれています。
光太郎は弟子たちに「技巧ではなく心を刻め」と語り続け、
芸術の本質は形ではなく魂にあると説きました。
その信念は朝倉を通じて日本の彫刻界に広まり、多くの芸術家たちに影響を与えました。
彼の芸術思想の根底には「真の芸術は愛と苦悩の中に生まれる」という確信がありました。
美しい形を作ることよりも、人間の内なる光と闇を表すことに価値を見出し、
孤独や悲しみすらも創造の糧としました。
彼の生涯は決して平坦ではありませんでしたが、
常に「人間としてどう生きるか」という問いを芸術に託しました。
朝倉文夫が後に文化勲章を受け、日本彫刻界を代表する巨匠となった背景には、
この光太郎の影響が色濃くあります。
師の教えを胸に、朝倉は写実の中に魂の動きを表し、
見る者の心を打つ作品を数多く残しました。
二人の歩んだ道は、それぞれ異なるようでいて同じ精神で貫かれていました。
高村光太郎の「僕の後ろに道は出来る」という言葉の通り、
弟子の朝倉文夫は師の後ろに確かな道を築き、その道をさらに広げていきました。
師弟の魂の継承は、今も日本の美術館やアトリエの中に息づいており、
見る人の心に「生きるとは何か」「美とは何か」という問いを投げかけ続けています。
高村光太郎と朝倉文夫、二人の芸術家が生涯をかけて刻んだその道程は、
時代を超えて今も静かに輝き続けているのです。