EXECUTIVE BLOG
2023.10.24
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
新幸橋の話から 幸橋の話でした
幸橋門と言うのが 新橋側から幸橋を渡るとあったようです
江戸は防衛上 お堀が多かったので、 その分橋も多かったのでしょう。
で
新幸橋跡付近に 今ではお店が沢山出来ていますが
その話は 後ほどでと言う事で、
幸橋で連想できるのが今の内幸町です。
内幸町の町名由来版を見たのですが そこに書かれていたことは
この界隈には江戸時代の初期から大名屋敷が置かれていました。
安政三年の絵図には、
陸奥白河藩阿部家、薩摩鹿児島藩島津家、肥前小城藩鍋島家、
大和郡山藩柳沢家、日向飫肥藩伊東家、石見津和野藩亀井家の上屋敷が
あったようです。
そして
明治五年に、阿部家、島津家、鍋島家の上屋敷を合併して内山下町一丁目、
柳沢家、伊東家、亀井家の上屋敷を合併して内幸町一丁目となりました。
内幸町という町名は、
昨日まで書いていたように、幸橋御門の内側に位置していたことに由来して名付けられた
と言う事で名付けられた事が分かりますね。
明治時代の内幸町一丁目には東京府庁や社交クラブの東京倶楽部などがありました。
教科書でも習う鹿鳴館は明治十六年に、
政府によって現在の大和生命保険株式会社の場所に建設されたと言う事です。
この一帯は外国貴賓や政府高官などが集まり、
舞踏会や演奏会で賑わっていたのですね。
かつては上流階級の社交場であったこの町は、戦後、多くの企業が名前を連ねるオフィスビルなどに姿を変えます。
私が所属している 日本記者クラブもここにあります。
日本を代表するエリアであったことは間違いないと思います。
それで 近くには 日比谷公会堂もあるのだと納得するのですが
なんと こち地区で 明治のある有名な女性が誕生しています。
その方の事の顔は 多分殆どの方がある印刷物で見た事があると思います
大変お世話になっている方です
この方 一体誰なのか???
それは????
明日に続く、、、。