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社長&顧問ブログ

2024.12.18

黄門様

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです。

 

昨日までは 神州不滅の思想が 水戸藩から出来たと言う話でした。

水戸藩と言えば 徳川御三家ですよね

 

その徳川一門から 何故このような考えが出て来たのか????

今日の話しです。

 

 

昨日も書いたように 水戸藩は 経済的負担が大いのにも関わらず

徳川将軍家を一番守らなければならない立場でした、

この水戸藩が命懸けで幕府を守る幕府にはそれだけの値打ちがあるはずだ…。

と考えたのが 水戸光圀でした。

 

なぜ そのような 考えに至ったのか?? の話しの前に

 

またまた 話が逸れてしまいますが

何故光圀公は 黄門様と呼ばれたのか?? と思いませんか???

 

その前に そもそも水戸藩とは? からの話に、、、、、、、

 

常陸国水戸にあった徳川氏の支流家系です。

徳川家康の十一男・徳川頼房を家祖として、江戸時代を通じて水戸藩(茨城県中部・北部)を治めていました。

 

格式としては、三つ葉葵の家紋を使用することが許された徳川御三家の一つです。

ご承知の通り

徳川御三家とは、江戸時代において、徳川氏のうちでも徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた三家で、・尾張 徳川家・紀州 徳川家・水戸 徳川家の事ですね、、

水戸徳川家は、尾張家・紀州家からみると格下の家柄だったとも言われますが、

一般に御三家の一つとして数えられているのです。

 

水戸家には

「もし徳川宗家と朝廷との間に戦がおきたならばためらうことなく帝を奉ぜよ」

の家訓があったとされています。

 

つまり、いざとなったら徳川家よりも天皇家を選ぶ覚悟のあった家系ということなんです。

 

で 水戸光圀公の話しに戻ると

何故 光圀公は 黄門様と呼ばれていたのかをご存知の方は少ないのではと思います。

この「黄門」とは、中納言という官名の別称なのです。

中納言は、朝廷から与えられた官名ですが、

朝廷の官の制度は、もともとは唐の律令制にならってつくられたものです。

 

その本場中国で、門下生という役所の次官の役名を「黄門侍郎(こうもんじろう)」

と言っていたのですよ

中納言は大政管の次官にあたり、その職が黄門侍郎に相当するところから、

中納言光圀公を「黄門様」といっていたと言う事になるのです。

 

 

では 中納言が黄門ならば  尾張や紀伊の 大納言は なんて言うのか??

までは なかなか知りませんよね

 

それは 亜相というのです。 読み方は 「あしょう」です。

 

役所の次官の役が黄門ならば  亜相は なんなのか? と言うと

大将に次ぐものと言う意味だそうです。

 

となると 黄門様が 天下の副将軍と名のっていましたが

本来の意味であれば 副将軍は亜相「あしょう」のはずでは??? とおもいます

あしょうか とか つい思ってしまいますね、、、、、

 

この水戸黄門様は水戸藩の二代藩主ですが

実際の光圀は諸国をまわったということはないようで、 それはドラマの中の

話しなんですよね

徳川の封建主義は、偉い人を勝手に一人歩きさせるようなシステムにはなっていなかったのですから、、、。

 

そして この彼が後に書かせたものが

尊王攘夷となって行くのです、、

 

それでは 何を誰に書かせたのか??

助さん格さんとは??????

 

の話は

 

明日へ続く、、、。

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