
EXECUTIVE BLOG
2025.8.9
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 出雲大社に纏わる話でした。
今日は 話が一転しまして、
長崎原爆の日です、、、、。
多くの犠牲者が長崎でもでました。
今日はこの話に進みます、、、。
原爆が広島に投下されたのは1945年8月6日。
人類が初めて体験する原子爆弾という破壊の力が、一瞬にして街を焼き尽くし、
十数万人の命が奪われました。
そしてその3日後の8月9日、
再びアメリカ軍は原爆を日本の都市に投下します。
多くの方がご存じの通り、その場所は長崎でした。
しかし、
本来の予定では長崎ではなく、福岡県の小倉が投下目標とされていたのです。
歴史の陰に埋もれていたこの事実と、それに関わる人々の静かな行動が、
近年になって明らかになってきました。
当時、小倉には日本の重要な軍需工場が数多くありました。
特に八幡製鉄所は、国家の戦争遂行を支える中核的な存在であり、
アメリカ軍にとって最重要爆撃目標のひとつでした。
実際、終戦間際の日本に対し、アメリカが狙ったのは、
ただ都市を破壊するだけでなく、産業の中枢を断ち切ることでした。
そうした理由から、広島とともに小倉は原爆投下の第一候補地に挙げられていたのです。
そして8月9日、原爆を搭載したB29爆撃機「ボックスカー」は、
第二の原爆「ファットマン」を積み、小倉を目指して飛び立ちました。
ところが、投下当日の朝、
小倉上空は煙と雲に覆われ、視界が非常に悪くなっていたのです。
これまで多くの人々は、その原因を「天候不順」として語ってきました。
たしかに前日までの空襲によって煙が残っていたとも言われていますが、
それだけでは説明のつかないほど、視界は不自然なまでに悪化していたと、
B29の乗員たちも報告しています。
実は、この背景にあったのが、
八幡製鉄所の職員たちによる「黒煙作戦」とも呼べる行動だったのです。
地元新聞の取材により判明した証言によると、
当時の八幡製鉄所の職員たちは、B29が小倉に向かっているという情報を受け取りました。
そして彼らは、とっさに工場内のコールタールをかき集めて一斉に燃やし、
空一面に濃密な黒煙を立ち上らせたのです。
コールタールは粘度の高い黒い液体で、
これを燃やすと非常に濃くて視界を遮る煙が出ます。
戦時下、空襲の際に煙で目標を隠す「煙幕」という手法は知られていましたが、
これほど大規模に行われたのは極めて異例のことでした。
当時のB29には、現代のような精密な航法システムやレーダーはなく、
投下の最終判断は目視によって行われていました。
空から地上の目標を確認できなければ、原爆は落とせません。
黒煙に包まれた小倉の街は、B29の目には見えない存在となり、
搭乗員は投下を断念せざるを得なくなりました。
そしてやむなく、
爆撃機は第二目標である長崎へと進路を変更することになったのです。
こうして、原爆は小倉ではなく、長崎に落とされることとなりました。
この運命の分岐点に、八幡製鉄所の職員たちの行動があったのだとしたら、
その意義は計り知れません。
実際、小倉の街は原爆の投下を免れ、
その後の復興を比較的早く進めることができたといわれています。
だが、そこには語られざる深い葛藤もまた存在していたのです。
職員たちは、
自分たちの行動によって小倉が救われたことに対し、安堵の思いを抱いた反面、
その爆弾が代わりに長崎に落とされ、数万人の尊い命が失われた事実に、
深い苦悩と自責の念を抱き続けることとなりました。
もしあの時、自分たちが黒煙を立ち上らせなければ、
小倉が焼かれていたかもしれない。
その一方で、長崎の人々は、
何も知らぬまま、炎と閃光に包まれ、命を落とした。
その現実を前に、職員たちは
「自分たちは人を救ったのか、それとも人を犠牲にしたのか」と問い続け、
答えのない葛藤の中で、長い戦後を生きていかざるを得ませんでした。
このことから、彼らの多くはこの話を語ることなく沈黙を貫きました。
それは自慢でもなければ、英雄的行為として讃えられるべきものでもない
と感じていたのです。
むしろ、語ることで新たな苦しみを呼び起こすことを恐れ、
戦後の復興とともに、記憶の奥深くへと押し込められていったのでした。
この事実が人々の記憶から消えかけていたのは、
そうした繊細な心の背景があったからこそなのです。
しかし、数十年を経て、ようやく関係者の中に
「語り残しておくべきだ」との声が少しずつ芽生え始めました。
自分たちの行動の真意は、誰かを犠牲にしようとしたものでは決してない。
ただ「今できる最善のことをした」という、それだけだったのだと。
そして、あの戦争の惨禍を繰り返してはならない、
そのためにこそ、あのとき何があったのかを後世に伝えたい。
その思いが、少しずつ証言として結ばれていき、
新聞の取材や記録を通じて、今こうして私たちの前に姿を現してきたのです。
私たちはこの物語を、
「誰が正しく、誰が悪かったのか」という単純な視点で見るべきではありません。
戦争という極限の状況下において、
人は自らの命、家族の命、街の命を守るために、
とっさの判断と行動を求められます。
そこには時に、望まぬ結果を招く選択が含まれることもあります。
しかし重要なのは、そうした行動の背景に、
人間としての良心や慈しみの心が確かにあったということ、
そしてその心が、時を超えて今の私たちに語りかけてくれているということです。
八幡製鉄所の空を覆った黒い煙、それは単なる物理的な煙ではなく、
人々の願いと祈り、知恵と勇気が形となったものだったのかもしれません。
そしてその煙が、小倉の街を守り、
同時に長崎の悲劇へとつながったという厳しい現実もまた、
私たちは受け止めなければなりません。
平和とは、
「誰かの犠牲の上に成り立つ静けさ」
ではなく、
「誰もが尊重され、誰もが傷つかない道を選ぶ努力」
の積み重ねの上に築かれるものです。
この話を通して、私たちが学ぶべきは、
「命を守りたい」という想いが、時に大きな流れを変える力を持つということ。
そしてその想いは、決して戦場の英雄たちだけが抱くものではなく、
工場の一隅にいた名もなき人々の胸の中にも、確かに灯っていたということです。
戦争が終わって80年が近づこうとする今、
あの時代を生きた人々の静かな祈りを、
私たちが受け取り、未来へと語り継ぐこと。
それこそが、真の意味で平和を愛するということではないでしょうか。