EXECUTIVE BLOG
2024.6.10
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは アメリカの黒人の話から
日本とエチオピアの話しでした
話しは途中になていますが 日本とモザンビークの関係も良好なのですが
エチオピアとも良好だとい事がわかります。
私世代は エチオピアと言えば 前の東京オリンピックのマラソンの
金メダリスト アベべ 選手の事はよく知っていると思いますが
エチオピア含めて アフリカの方々 又 祖国がアフリカの米国の黒人たちの
事を 多くの方がご存知ないのではと思います。
そこで 昨日の話に戻りますが
過去に、黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、
アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画でした。
しかし
これは実現には至らなかったが、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠だったと思います。
エチオピアと日本の関係のピークは1927年から1935年の間でした。
1927年に、この2国は通商友好条約を結び、
1930年にはアディスアベバで行われた皇帝ハイレ・セラシエ の戴冠式に
日本の使節が出席しているのですよ、、、、。
そして
その返礼訪問で、外務大臣率いるエチオピア代表団が1931年に日本を訪れているのです。
使節たちは日本に約2カ月間滞在して、天皇裕仁に謁見し、
そして日本の近代化のシンボルとなるあらゆる場所を巡りました。
つまり、工場、会社、工業型農場、動物園、劇場、鉄道、神社、博物館、軍事教育施設です。
このときの訪日の目的は、商業的なつながりを強化するためと
そしてヨーロッパへの経済的な依存を弱めるためだったのです。
当時の外務大臣は日本滞在に感動して、
エチオピアへの帰国後に『光の場所――日本という国』と題した小冊子を執筆ました。
そのなかで、エチオピアも日本モデルに従うことを推奨し、
なんと、1931年のエチオピアの憲法は、1889年の明治憲法を踏襲したものだと言われているのです。
この時のエチオピア代表団のメンバーの中に、皇帝ハイレ・セラシエの親族がいて、
やはり日本での経験に大きな感銘を受けて、
その時に日本の女性と結婚しようと決意したのです。
この時に、アジア諸民族の団結と欧米列強からの独立を主張する思想の持ち主でもあった弁護士・角岡知良と言う人が、アラヤの結婚相手探しを手伝ったのです。
そこで一旦は黒田雅子さんというお相手が決まったのですが、
その事を知ったイタリア政府の干渉があって結婚は取りやめになってしまったのです
その理由が
イタリア政府はエチオピアの植民地化を狙っていたので、
日本とエチオピアが同盟関係になる事に反対だったからなのです
国際的な愛の成就が このような植民地主義の考えで潰えてしまったのは残念ですね
もし これが 実現したいたならば
今 アフリカは中国によっていろいろ牛耳られそうになっています。
日本であれば 牛耳るのではなく 皆が独り立ちできるような手助けをすることができ
結果 アフリカ諸国と一層友好関係が深まったのではと思ってしまいます。
この雅子さん 平成元年にお亡くなりになっていますが
もしかしたら ずっと エチオピア王子の事をずっと思い続けていたかもしれませんね、、。
アフリカと日本
さきのモザンビークとはどのような関係なのか
等の話は明日へ続く、、。