
EXECUTIVE BLOG
2025.9.4
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 極東軍事裁判は事後法と言われて無効だと言う考え方も
あると言う話でした。
しかし 実際には 7人のA級戦犯が処刑されました。
今日は この7人についての話に進みます、、。
太平洋戦争の終結後、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判において
最も重い責任を問われ、絞首刑となったA級戦犯は7人いました。
彼らは軍人、政治家、外交官と立場は違えども、
いずれも日本が行った侵略戦争の企画や遂行に深く関与したとされ、
その人生と罪状は戦後の日本人にとって重い教訓を残しています。
まず第一に挙げられるのは東條英機です。
陸軍大将であり内閣総理大臣として真珠湾攻撃を実行に移し、
アジア太平洋に戦火を広げた中心人物です。
開戦の決断を下し、その後も軍需増産や国民総動員を進めて徹底抗戦を主導しました。
敗戦後は自決を試みるも失敗し、
東京裁判では主として対米開戦の最高責任を問われました。
彼は堂々と証言しましたが、判決は死刑であり、
昭和23年12月23日に巣鴨プリズンで刑が執行されました。
次に広田弘毅、
彼は外交官出身で唯一の文官として死刑判決を受けた人物です。
かつて内閣総理大臣を務め、
日独伊三国同盟や日中戦争拡大期の外交責任を問われました。
広田自身は戦争に積極的ではなく、むしろ穏健派と見られていましたが、
軍部の暴走を抑えられず黙認した「不作為の罪」が裁かれたのです。
特に南京事件での軍の暴虐を止める立場にありながら傍観した責任を問われ、
処刑されました。
その潔白を信じる声もありましたが、国際社会は彼を厳しく断罪しました。
松井石根は南京攻略戦を率いた陸軍大将であり
南京事件の責任を問われました。
実際には戦後南京で慰霊式を行い遺族に弔意を示すなど反省の色を見せていましたが、
指揮官として数十万とされる犠牲者を生んだ責任は免れず死刑となりました。
松井は自らの裁きを受け入れ、処刑の際には仏教的な心境を語ったと伝えられます。
板垣征四郎は関東軍参謀として満州事変を起こし、
のちに陸軍大臣を務めた人物です。
彼が起こした満州事変は国際連盟脱退の引き金となり、
日本が孤立化する流れを決定づけました。
侵略戦争の火蓋を切った張本人として強い非難を浴び、
東京裁判でもその責任を徹底的に問われました。
判決は死刑であり、彼はその責めを一身に負って刑に臨みました。
土肥原賢二もまた関東軍に所属し、満州国建国に深く関与した参謀でした。
謀略を駆使して中国での支配を拡大し、現地の政権工作に暗躍しました。
その後は日中戦争に関わり続け、
拡大を止めることなく火に油を注ぐ存在でした。
裁判では「謀略将軍」として裁かれ、
満州事変から日中戦争へ至る一連の流れの責任者とされて死刑判決を受けました。
木村兵太郎はビルマ方面軍司令官として知られ、
タイ・ビルマ鉄道の建設に伴う捕虜や労務者の大量死の責任を問われました。
過酷な環境で数万人の命が失われ、その責任は司令官にあるとされました。
直接命令を下した証拠が薄いという意見もありましたが、
現場を統轄する立場にあったことは否定できず、死刑を宣告されました。
最後に武藤章、第14方面軍参謀長としてフィリピン戦を指導した軍人です。
フィリピンでは捕虜や民間人に対する虐待が相次ぎ、
バターン死の行進などで多数が命を落としました。
彼は司令官山下奉文の下で作戦を主導し、
残虐行為を防がなかった責任を問われました。
山下は別裁判で死刑になりましたが、武藤もまた指揮官としての責任を追及され、
同じく絞首刑となりました。
こうして7人はいずれも昭和23年12月23日に処刑され、
日本の戦争責任を象徴する存在となりました。
判決には事後法であるという批判や勝者の裁きであるという意見もありますが、
国際社会が侵略戦争を二度と許さないという意思を示したこともまた事実でした。
彼ら7人の人生はそれぞれ異なりますが、
共通するのは戦争を止める立場にありながら止められなかったこと、
あるいは自ら積極的に戦争を推し進めたことです。
今日の私たちはその歴史を振り返ることで、権力を持つ者の責任の重さ、
そして平和の尊さを学ぶことができるでしょう。