EXECUTIVE BLOG
2021.2.3
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 平賀源内が 秋田に訪問した時に出会った
小田野直武に絵の指導をすることで
その後 秋田蘭画と言う文化が芽生えたと言う話でした。
平賀源内は エレキテルなどを発明した天才と言われた人ですが
科学から文化までに長けていた方なのです。
彼の逸話として有名なのが
土用の丑の日になぜ鰻を食べるのか? と言う話です。
ここでは長々と説明しませんが
この仕掛け人は平賀源内であったと言う話です。
色々な事に長けていて当時奇人と言われていたのも頷けます。
そして 今日の話は
平賀源内の孫弟子ともいえる
司馬江漢の話です。
この司馬江漢も奇人と呼ばれた一人です。
司馬江漢は、江戸時代中期の1747年江戸の町家で生まれました。
幼い頃から好奇心旺盛だった江漢は、当代きっての人気浮世絵師・鈴木春信に浮世絵を学び、中国人絵師に学び中国伝来の写実画をマスターしたと言われています。
江漢の好奇心は最新の西洋文物へと向かい、西洋版画や油絵に興味を持つと、洋書を参考にして日本初の銅版画まで作ってしまったのです。
それだけでなく、この作品、覗き眼鏡で見るのが前提となっていて、
覗き眼鏡で見ると立体的に見えていたそうです。
まさに3Dの先駆けですね。
とにかく好奇心旺盛で行動力もある江漢は、42歳の時、ひとりで長崎へ向かいました。
当時の長崎といえば西洋文化の入り口であり、最新知識の宝庫の街でした。
ここに西洋絵画の研究をしに行ったのです。
長崎で初めてたくさんの輸入油絵を目にした江漢は、今度はまだ国内では誰も描いたことのない油絵に挑戦します。さっそくオリジナル油絵の具をつくると、ただ真似るだけでなく、浮世絵の画法と西洋の遠近法や陰影法をミックスさせ日本初の油絵も完成させたのです。
彼の才能は絵画だけではなく、蘭学者としても最新の天文学、地学などに通じ、
世界地図を製作したり、「コペルニクスの地動説」を著書のなかで紹介するなどもしています。
また、「和蘭茶臼」というコーヒーミルをつくってみたり、
晩年には人間観や人生観、学問観、社会観など江漢のあらゆる考え方がつまった
『春波楼筆記』という随筆を著してみたりとにかく色んなことをやりました。
ここで
江漢の奇人ぶりを表す有名なエピソードをご紹介します。
1813年のある日、江漢の知人たちにこんな手紙が届きました。
内容は
「江漢先生は老衰し、絵も描かず、蘭学や天文にも飽きてしまい隠棲していましたが、ついに悟りを開いて死にました」。
それは江漢の死亡通知書だったのです。
知人たちは突然のことに愕然とし、悲嘆にくれました。
ただし、これを送ったのは死んだはずの当の江漢だったと言うので驚きです。
ある日のことですが、
江漢がやむを得ない用事があり外出すると、
死亡通知書を送りつけた知人と出くわしたことがありました。
肝をつぶした知人を無視して江漢が無言で立ち去ろうとするものだから、
知人は
「江漢先生ですよね? 先生、先生!」と追いかけたのです。
彼はどこまでも無視して歩いたのですが
ついにたまりかねた江漢は
「ええい、死人がしゃべるか!」
と知人を叱り飛ばし、その場を立ち去ったというのです。
まさに奇人のなせる業ですね
何度も書きますが 当たり前の事を考えない人には 新しい発見が出来ないのではと
つくづく思ってしまいます。
江戸末期にはこのような奇人が多く輩出されています
その奇人たちとは誰なのか??
それは、、
明日に続く、、。