EXECUTIVE BLOG
2021.3.18
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日は 桜田門外の変の話でした
昨日書いたように 白昼 井伊大老の籠が
衆人環視の中で行われたのですが あまり詳細の記事は残されていないのは
当時 幕府が この出来事を公にしないようにと厳しく取り締まったからだと言われています。
記憶は定かではありませんが 桜田門外には 確か杵築藩の藩邸があったようですが
事件の一部始終をここの人たちは見ていたと思うのですが
幕府から厳しくかん口令が出て 見ざる言わざる徹していたようです。
井伊直弼の首を斬った薩摩藩士、有村次左衛門はというと。
近江国(滋賀県)三上藩主の遠藤但馬守の屋敷前まで逃げたのですが、
そこで力尽きてしまったのです。
それで井伊直弼の首を横に置いたまま、自決したのでした。
この事で困ったのは、
井伊直弼の首が置かれた三上藩主の屋敷です。
とりあえず、藩主である遠藤但馬守が引き取ることにするのですが、
じつは、この三上藩、滋賀県の琵琶湖の右岸を領地にしており、井伊直弼の彦根藩とはご近所という立地関係だったのです、
それであるならば彦根藩に首を返せばいいじゃないと思う所ですが
なんと、彼らは首を返さなかったのです。
三上藩は1万2,000石。一方、彦根藩は大老、井伊直弼が藩主で、25万石の領地を誇大藩です。
もちろん、もっと困ったのは彦根藩の方です。
主君である井伊直弼の胴体は彦根藩邸に戻ってきたのですが、
いかんせん、首がない、聞けば、あの三上藩主の屋敷にあるというではないかという事が分かり、
なんとしても、首を取り返さなければならない状況に追い込まれパニック状態になっていたようです。
主君、井伊直弼は襲撃され死亡。しかも直弼は、嫡男さえも決めていなかったからです。
現代の感覚ならば、主君の突然の死。しかも、襲撃した相手が100%悪いのです。
井伊直弼は完全な被害者です。
しかし、当時の感覚であれば、襲撃を許した井伊直弼側にも不備があったという認識だったのです。
当時、武士の「横死」は藩の命運を左右するもので、場合によってはお家断絶、所領没収もあり得る時代です。
彦根藩にしてみれば、とっとと、主君の首を返してもらって、なんとか横死ではないと装う他道が無かったのです。
こうして、彦根藩は急遽使者を出して、
遠藤家の屋敷に急行し首と殺害犯の引き渡しを要求するのですが、
三上藩は拒否するのです。
どうやら、実情を確認するための検使待ちを理由に、断ったという。
これには彦根藩も大困り。要職についた者を使者として再度要求しても、三上藩は相変わらずの塩対応だったのです。
遂に検視も終わり、井伊直弼の首は、やっとこさ、彦根藩に戻ることに。
さて、ここで、三上藩は、彦根藩に対して首を返す代わりに、その受取書を要求するのです。
その時に 彦根藩側が渡したのはその名も「加田九郎太」と言う者の首の受取書だったのです。
加田九郎太って、一体誰よ?
井伊直弼って別の名があったの?か という事になるのですが、
首を斬られたのは、彦根藩主の井伊直弼です。
だったら、結局、加田九郎太って誰なのよとなるワケになるのですが、
事の真相はというと。
加田九郎太という人物の名は、彦根藩にないのです。というか、つまり、加田九郎太は架空の人物だったのです。
なぜそういう事をしなければならなかったかと言うと、
主君、井伊直弼が横死となれば、お家断絶の危険があったのは御存知の通りで、
そのため、今回襲撃されて死んだ人物も、井伊直弼ではなかったとにして、
架空の「加田九郎太」なる者が、井伊直弼の代わりに斬られたのだとしたのです。
そして、彦根藩の言い分をそのまま額面通りに受け取った三上藩は、分かりましたという事にしたのです。
こうして、無事に井伊直弼の首は彦根藩に戻り、早速、胴体と繋ぎ合わされることにするのです。
既に死んでいるのですが奥の間に寝かされて、主君は怪我をしているだけで、
ピンピン生きてまっせという茶番劇を行う事にするのです。
彦根藩としては、井伊直弼は只今、療養中で、その間に、側室の子である愛慶麿を嫡子として届け出るのです。
これを受けて幕府も、井伊直弼が暗殺されたと知りながら、存命中だという事にして、
彦根藩の発表を全面的に信じた体にしたのです。
なんといっても、井伊家は、徳川四天王の井伊直政の血脈が受け継がれている家系で簡単にお家断絶などできないという裏側の事情があったようです。
死んでいない事になってますので
次に 諸藩大名がお見舞いをすることになるのですが
ここで 大きな問題が、、、、
それは??????
明日に続く、、。