EXECUTIVE BLOG
2021.4.1
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは
桜満開の話から
本居宣長の和歌
「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜かな」
を思い出し、
この和歌が 戦時中には 桜が見事に散る姿を 見事に国の為に
戦死しろというような風潮になってしまったこと。
そして これが カミカゼ特別攻撃隊に繋がって行くと言う話でした。
このカミカゼ特別攻撃の第一陣として
関大尉が 本心では無かったとは思うのですが見事敵艦に突っ込んだのです。
その時は 日本のメディアはこぞってその栄誉を称えて
その母親は 軍人の母として 崇められたのですが
戦後になるや 関大尉の母親のサカエさんが亡くなった際、
戦時中は「軍神の母」とつきまとっていた新聞記者が
「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」
と吐き捨てるように言ったと言うのです。
メディアも市民も 戦後は人殺しの母親だという事で
何の罪もない 母親に対して、ののしり、石を投げつけて言うのですから
あまりに理不尽な話だなと思うのです。
このような 悲惨な話を産んだ特別攻撃隊は
どのようにして誰の発案だったかが
今日からの話になります。
生きて戻れない特攻隊の結成を決断したのが、
第1航空艦隊司令長官だった大西瀧治郎中将です。
当時中将は関大尉ら特攻隊員に対して次のように訓示しています。
「日本は正に危機である。しかも、この危機を救い得る者は…諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人びとのみである。従って自分は一億国民に代わり、皆にお願いする」
訓示の要点はただ一つ、
「国のために死んでくれ」だったのです。
では、特攻隊員を見送る大西中将の心中はどうだったのでしょうか??
中将は生前次の様に言われていたそうです。
「一緒についていってやりたい。最初の特攻攻撃の時からそんな気持ちでした。
出撃する隊員一人一人と握手をするときもじっと目を見つめていた。
俺も後から行く、お前たちばかりを死なせない」
というような言葉を口にしていたそうです。
大西中将は、終戦の日の翌日、
昭和20年8月16日未明、東京・南平台の官舎で割腹自殺するのです。
特攻隊員たちの苦しみを思い、介錯を拒否したというのでした。
大西中将を知る人は
「長官に対する見方は毀誉褒貶ありますが、根が優しいから約束を守って部下の後を追って自決したのです。優しくなければ自決なんかしません。責任感だけでは自決はしません」
と言わていました。
この作戦を敗戦を誰もが予測していた戦争末期に何故敢行したのか??
これには深いわけがあったのです、
それは、、
明日に続く、、、。