EXECUTIVE BLOG

社長&顧問ブログ

2021.3.31

軍神関大尉の話

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです

 

昨日までは 桜田門外の変から愛宕神社へ話が飛んで

桜繋がりから

本居宣長の 和歌についての話になってしまいました。

 

桜と言う花は 綺麗な花ですが さっと咲いてパッと散る 散り際が

美しい事から

戦時中には この散り際の美しさを兵士に求めて

そこから 人間が爆弾を抱えたまま敵艦に突入すると言う

めちゃくちゃな作戦を日本軍が立て、

カミカゼ特別攻撃隊が出来たのでした。

 

この攻撃隊に加わる隊員は 命令ではなく志願と言う事になっていましたが

当時 誰の口からも 辞退しますとは言える雰囲気ではなかったのです。

 

そして 最初のカミカゼ特別攻撃隊を指揮することを志願したのが

関大尉と言う軍人でした。

 

敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット飛行場で、

海軍兵学校70期の関行男大尉を指揮官に5人で編成されていて、

25日、レイテ沖海戦で敵空母群に突撃し、護衛空母セント・ローを撃沈するなど戦果をあげたのでした。

 

歴史上初めての特攻攻撃に対して、関大尉は出撃命令を受けた際、

「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したと当時戦意高揚に利用され

国民に流布されたのですが、

実際は

『日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』

『ぼくは最愛の妻のために行くんだ。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。

最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』

と当時の報道員に伝えたそうです。

 

関大尉は当時、新婚5カ月だったのです

その言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わってきます。

特攻作戦の是非を論評する前に、特攻隊員の生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断を見落としてはならないとおもいます。

 

関大尉らが第1号として出撃、散華した直後の同月29日付の朝日新聞は1面で

「身をもつて神風となり、皇国悠久の大義に生きる神風特別攻撃隊五神鷲の壮挙は、戦局の帰趨破れんとする決戦段階に帰して身を捨てて国を救はんとする皇軍の精粋である」

と報じ、

社説では「関大尉等五勇士の雄魂は、これによつて驕慢なる敵戦力を挫いた。

この殊勲、この精神にわれらは勝機を見た」

と当時は最大の評価を報じていたのです。

 

 

ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、

遺族を取り巻く環境も一変することになるのです。

 

関大尉の母、サカエさんも

「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」

というレッテルを貼られてしまったのです。

 

訪れる人もなく、衣類を闇米に換え、草餅を作って売り歩いたそうです。

 

晩年は西条市の小学校に住み込みで働き、昭和28年11月、還暦を前に亡くなる。

意識が混濁する床で

「行男の墓を建ててください」とつぶやいて息を引き取ったと言われています。

 

関大尉はどのような思いで家族を残して 敵艦に体当たりをしたのでしょうか?

残された母は戦時中は 軍神の母として称賛されていたのが

終戦と同時に 戦争犯罪人のような扱いを受けてしまったのは

あまりに悲惨な話だとおもいます。

 

このような悲惨な特攻隊はどのような背景から産まれたのか??

 

それは

 

明日に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

 

高光産業株式会社 妹尾八郎監修の書籍

 

高光産業株式会社 妹尾八郎監修の書籍(Amzon)