EXECUTIVE BLOG
2021.6.22
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 6月23日が 沖縄の実質終戦記念日だと言う話から
対馬丸の話になり 更には東京大空襲の話になってしまいました。
戦争体験者が少なくなった今 私の様に 体験者から直接話を聞いたものが
後世に伝えなくてはと思います
それで 今日は 東京大空襲後の政府発表について に続く予定でした。
内容は 当時のメディア発表は軍部の思いのまま報道されていたので
被害が大きくても少なかったとか 負けているのに大きな戦果を上げたとか
事実を曲げていたと言う話になる予定でしたが
昨日 地元の古老から聞いた話がありましたので
その話になります。
その話とは 昭和20年 6月19日に 福岡も大空襲を受けたと言う話でした
今から76年も前の今頃の話ですね。
その方は 当時小学生だったそうです
空襲警報の前に 警戒警報が鳴るのだそうですが
警戒警報からすぐに空襲警報がなり あっと言う間に 空には 爆撃機の大軍が
押し寄せてきて 空から雨あられの様に 焼夷弾が落ちて来たそうです
真夜中であるにも関わらず 辺りは昼間の様に炎のより照らされていたとの事でした
その方は 近くのお寺に逃げ込んで難を逃れたそうなのですが
当時 旧十五銀行福岡支店が 川端近くにあったのですが
そこで 大変な惨劇が起きてしまったのでした
旧十五銀行福岡支店は 今の 博多座がある辺りです。
空襲警報を受けて近所の住人多数が銀行の地下室に逃げ込みました。
しかし
避難所であった旧十五銀行福岡支店の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められてしまったのです。
逃げ込んだはずの場所から出られないと言う事態に追い込まれました。
更に空襲の高熱で水道管が破裂してしまい、熱湯と化した上水が地下室に流れ込んで、
62人が熱死するという惨事も起きてしまったのです。
頑丈で安全と思われた銀行地下防空壕がまさかこのような事態になるとは
誰も予想していませんでした。
空襲は博多地域のほか、薬院・当仁・新柳町・平尾・六本松・田島・姪浜など多数の場所も被災し、七隈の現在の福岡大学は学生が勤労動員で休校状態だったのですが、
図書館を焼夷弾が直撃し蔵書約3,000冊もろとも灰燼に帰してしまったのです。
そのため、旧福岡大学は戦後の新制大学昇格の条件に図書館蔵書1万冊必要でしたので、蔵書の確保に学生までが奔走しなければならなかったそうです。
勿論 一般住宅だけでなく
日本軍の施設のうち、福岡城址の西部軍司令部や歩兵第124連隊の建築物に被害が出たのです。
しかし同年5月に滑走路が完成していた席田飛行場(現在の福岡空港)には被害はなく、終戦後の同年10月に米軍板付基地として接収されることとなったのです。
これは 米軍が終戦を見込んで 占領軍を送り込むために 飛行場への攻撃はしなかったと言われています。
日本各地への攻撃でも 占領後の事を考えて攻撃を加えていたようです。
この時の 空襲で被害があった方々の慰霊碑が 博多区川端にある 冷泉公園の
中にあることご存知でない方が多いようです。
また この年の 博多祇園山笠は 全てが焼き払われてしまった事から 中止になったそうです。
冷泉公園を通る時は是非 平和を願って頂きたいと思います。
明日は このような攻撃を受けたにも関わらず まだ 日本軍が優勢に戦っていると
言う軍部発表について
その内容とは????
それは
明日に続く、、、。