EXECUTIVE BLOG
2021.8.12
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 76年前の終戦の日前後の話でした。
ポツダム宣言を早期に受け入れようとする政府の苦悩と
あくまでも徹底抗戦を叫ぶ 陸軍との対立があり
いつまでも 議論は平行線の中
天皇のご聖断を仰ぐことで それをもって結論と使用とした 鈴木首相の
苦労された話がありました
天皇陛下は 自分の身がどうなろうとも 国民をこれ以上苦しめるわけには
行かないという事で
ポツダム宣言を 条件なしで受け入れる事を決断されたのでした。
それまでは 軍部は 健軍以来 一度も降伏を経験したことがなく
絶対に無条件降伏の受け入れには反対してましたし
特攻隊の産みの親の大西中将にいたっては あと 1000万人の男子を特攻隊員として
突撃させれば 必ず勝つと主張していたのです
外地で展開する各部隊も 全滅するまで戦うべきだと 何度も 大本営あてに
連絡をしていたのですが
一旦天皇のご聖断が下ったと言う事になると
上層部は 「承詔必謹」 の号令の下 それまでの意気込みとは違い
一気に 武装解除に向けて動き出すのです
この時 魔法の言葉のように使われた 「承詔必謹」 と言う言葉が
軍人達を 分かりやすく言えば骨抜きにしてしまったのです。
過激な行動や発言を繰り出す各軍人に この「承詔必謹」だと
言うだけで 皆 おとなしくしたがってしまったのです。
それでも この言葉は一部 弱気になった重臣どもが 自分可愛さに この魔法の
言葉を吹聴してるとして 命令に従わない事が 日本を守る事になると
考えて この期に及んでも 徹底抗戦を唱えていた軍人も少数ながらいたのです。
そして これ連中が あろうことか 天皇を人質にとるような 事件を起こす事になるのですが
この話は 又後日という事で
この 魔法の言葉で 軍人達の身動きを止めてしまった
「承詔必謹」とは 何か?? についてですが
昨日も書きましたように
これは 遡る事 今から1400年ほど前の 推古天皇時代の
十七条の憲法の中に出て来る言葉なのです
この言葉が 千年以上の時を経て 太平洋戦争終結時に使われるとは
聖徳太子も思いもしなかったと思います。
これだけを見ても 過去の天皇陛下の統治のお考えが本当に素晴らしいもので
あったのではと思っていしまいます。
昨日までは この一条と2条について書かせて頂きましたが
和をもって貴しと成す や 2条にある 人間には悪人は居ないのだから仏の道を
歩みなさい とか 本当に平和を愛していたんだと思うのです
そして 3条には 何が書かれていたのか?
そこには
承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。
と書かれてて
簡単に訳してみますと
詔みことのりを承うけては必ず謹つつしめ。
君をば則すなわち天とし、臣しんをば則ち地とす。
天覆おおい地載せて四時しじ順行し、
万気ばんき通うことを得う。
地、天を覆わんと欲するときは、
則ち壊やぶるることを致さむのみ。
ここをもって、君言のたまえば臣承うけたまわり、上行なえば下靡なびく。
ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんば自おのずから敗れん。
という事になります。
もっとわかりやすく解説しますと
天子の命令を受けたら必ず恭しくしなさい。
天子は天なり。臣下は地なり。
天は地を覆って、四季が順調に経過し、万物の霊気がゆきわたる。
地が天を覆うことを望めば、道理が破れる。
それで天子の言葉に臣下は従う。
天子が道理を行えば臣下はなびく。
ゆえに天子の命令をうけたならば、必ず謹んでそれに従いなさい。
謹んで従わなければ、やがて国家社会の和は自ずから滅亡してゆくことだろう。
という事になります
当時は 地方の謀反を起こすような動きのある豪族にたいして発せられたのでしたが
昭和20年八月十五日の 終戦を迎えるにあたり なおクーデーターを起こそうとしている
部隊にたいして この 承詔必謹 と言う言葉を使う事で 反乱を抑えようとしたのだと考えられます
しかし それでも これを納得しない 軍人がいたのです
彼らは 最後の手段として 玉音放送を流させないために 何をしでかしたのか??
それは
明日に続く、、、、。