EXECUTIVE BLOG
2021.9.20
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 話が逸れまくって
ITの話から 江戸時代の 黒船が来た時の話になってしまいました。
いつの世の中も 庶民と言うのは機を見て敏というか
なんでも商売に結び付けると言う話でした
黒船が来た時には 望遠鏡の貸し出しビジネスや 黒船見学遊覧船ツアーなど
で儲けた商人が居たそうです。
それに反して 幕府の対応は遅く
当時矢面に立たされたのは老中首座の阿部正弘でしたが
阿部正弘はペリー(黒船)来航の報を聞きつけ、直ちに江戸城へ参内し閣僚の位置づけにある大名を緊急招集。ペリーに対する会議を行いました。
この時幕府が 自分で決められずに各大名に意見を聞くという事は
前代未聞で これ自体 幕府崩壊の序章の始まりだったのでは思いますね。
しかし、意見を収集はするが 何も決められないうちに、
ペリーはアメリカ大統領からの国書を幕府に送り
「一年後再び来航する」と言い残して一時帰国してしまうのです。
従来幕府は諸藩の意見など聞いた事などなかったのですが、
この時ばかりは諸藩に意見を求めざるを得ない状況に追い込まれていました。
そして
諸藩からの意見を集計すると
鎖国すべしという回答が約48%
開国やむなしが約26%
開国するべきが約4%
徹底抗戦が約15%
無回答が約7%
でした。
この時にマーケティングと言う言葉は無かったでしょうが
一応こういう事は行われていたのです。
意見はなかなかまとまりませんでしたが、
2度目のペリー(黒船)来航 に備えて日本側が行った対応として
日本側はアメリカと万が一戦争になったときのための軍備を整えようとしました。
まず行ったのが軍艦の購入です。
当時日本には軍艦と呼べるような船はありませんでした。
ペリーが乗船する黒船は船体が金属でできており動力は蒸気機関を使用しているため帆船よりも断然機敏な動きをします。
さらに船体の片側には9門の大砲が取りつけられていました。
日本はそんな黒船と戦うための軍艦をオランダから購入したのでした。
大砲を設置する台場の建設
次に行ったのが対艦用の大砲を設置するための台場の建設です。
東京湾の沿岸を埋め立てて11基の台場を建設しました。
埋め立てられたその地は後に『お台場』と呼ばれることとなります。
これは 今も フジテレビがある所ら辺りがお台場と呼ばれていますね
このような歴史的な背景があることを知らない人が多いのではと思います。
更に またまた
驚くべき対応策を幕府は練るのです
この対応策も 今 改めて聞いてみますと
思わず吹き出したくなるような内容です
その内容とは???
それは
明日に続く、、、。