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社長&顧問ブログ

2021.12.17

話は忠臣蔵へ

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです。

 

 

昨日までは 1941年12月8日の 真珠湾攻撃の話から

それから 更に 遡って

1703年12月14日の 忠臣蔵の話になってしまいました。

 

討ち入りを果たした浪士達は 皆切腹するのですが

その切腹をした場所で 私の身に何が起きたか??

が 今日の話に続くところでしたが

 

そもそも 忠臣蔵って何?? と ご存知でない方も多いかもしれません

 

私達までの時代は だいたい 毎年 この時期なると

テレビでは 必ずと言って良いほど 忠臣蔵のドラマが放映されていました。

 

毎年見てるわけですから 皆 結末は分かっていても どうしても

この時期の風物詩として見てしまうのでした。

 

結末が分かっているドラマとしては 水戸黄門もそうですね

爺さんが最後出て来て 紋所をだしすと 悪者たちが 一斉に平伏す姿は

結果が分かっていても 見てしまうものです

 

その水戸黄門で 紋所をだして見せて 通常であれば皆平伏すのですが

一回だけ それを見ても平伏さないと言う人物が現れたのです

そんな馬鹿な 平伏すのは決まり事でしょ? と思ってしまいますが

その人物は 平伏さないのです?

その人物とは 一体誰なのか?????

 

なんて 話に またまた逸れてしまいそうですが

 

ここは 一旦赤穂浪士の話になります

大体の粗筋は 殆どの方は ご存知だと思いますが

 

1702年12月14日の深夜、

旧主であった播州赤穂藩主・浅野内匠頭の仇である吉良上野介の屋敷に討ち入り、

吉良および家人を殺害したのが「赤穂事件」です。

 

赤穂浪士とは、

この討ち入りに参加した大石内蔵助を含む47人の武士のことを指すのです。

 

後にこの事件は、

「主君に対する忠義心」を題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」として人気を博し、

通称「忠臣蔵」として世に知られるようになりました。

彼らの忠義心をたたえて「赤穂義士」とも呼ばれていますね。

 

ことの発端は、

1701年3月14日に江戸城内の「松の廊下」で起きた刃傷沙汰にさかのぼります。

この日は朝廷から下向していた勅使たちへの返礼をする、

幕府にとって大切な儀式がおこなわれていました。

 

勅使たちの接待役を務めていたのが、赤穂藩主の浅野内匠頭です。

彼が江戸城本丸「松の廊下」にて、指導役をしていた吉良上野介を斬りつける事件が起きました。

 

時の将軍、徳川綱吉はこの出来事に激怒し、

浅野は即日切腹。赤穂浅野家はお取り潰しとなります。

 

一方の吉良は眉間と背中を斬られたものの傷は浅く、

彼自身にはなんのお咎めもありませんでした。

 

江戸時代の慣習は「喧嘩両成敗」です。

それなのに吉良に何の罰も与えられなかったこの結果を不服とする赤穂藩の旧藩士たちは、藩主の無念を晴らすべく、赤穂藩お取り潰しの撤回運動をおこないます。

 

しかし思うようにいかなかったため、

主君の仇討ちとして吉良を討ち取ることを決めたのでした。

 

大石内蔵助ら47名の藩士は水面下で準備をすすめ、

浅野の命日でもあった1702年の12月14日未明に吉良邸へ討入り。

およそ2時間後に吉良を発見し、その首をとって目的を達成したのです。

 

吉良邸を引き揚げた一行は、浅野家の菩提寺である泉岳寺に向かい、

亡き主君の墓前に吉良の首を供えました。

 

赤穂浪士たちへの採決は、死罪か助命か、賛否両論に分かれます。

世論としては助命の声が大きく、幕府内でも意見が揺れに揺れた結果、

ついに「徒党を組んで暴挙に至った復讐」と判断され、切腹という処分が下されました。

 

各大名屋敷に預けられていた赤穂浪士たち46人が切腹。一連の事件は終焉を迎えます。

ここでひとり足りないのは、寺坂吉右衛門という人物がどこかに消えてしまったからなのです。この理由はいまだ分かっていません。

 

後にこの事件は歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」として人気を博して、

「忠臣蔵」として世に知られるようになりました。

 

しかしいくつかの謎が秘められているのです。

 

その謎とは????

 

それは????

 

明日に続く、、、、。

 

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