EXECUTIVE BLOG
2021.12.19
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
赤穂浪士に纏わる話でした。
赤穂浪士の話は映画などで見た方も多いかもしれませんが
実話かどうかは もう 長い年月が経っていますし
本当の真相は藪の中かもしれませんが
主君を思い義理を果たした浪士達の思いを 多くの日本人が感動したのだと思います。
真相は分からないにしても
その史跡はあちこちに残っています
その一つが 高輪にある泉岳寺ですね、
この泉岳寺に 赤穂浪士の墓があるのです
泉岳寺は1612年に徳川家康が創建させた
400年以上も続くお寺なのです。
もちろんこのお寺は赤穂浪士の墓がある
お寺として有名なので、討ち入りの日である12月14には「赤穂義士祭」が催され、
毎年多くの人で賑わっています。
ちなみに泉岳寺には「吉良上野介」の討ち入りに参加した大石内蔵助を含む
46名の「赤穂義士」たちが眠っている・・ということで、
境内に赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している
「赤穂義士記念館」があります。「赤穂義士記念館」には江戸時代終わりから
明治二年までに制作された、「赤穂浪士」47名の木像が収められている
「義士木像館」もあるので、是非見学してみてください。
「赤穂浪士」は47名なのに切腹したのは46名ということで、1人足りませんね
この1人は「寺坂吉右衛門」という人物だったと言われています。
諸説ありますが、一説では見事に目的を達成した「吉良邸討ち入り」の
指導者である大石内蔵助より、
「赤穂義士」の遺族や関係者に討ち入りの事情や真実を伝えて廻り、
その後は遺族の相談役になるように命じられていたそうです。
しかし、討ち入りを報告して廻った後「寺坂吉右衛門」は江戸に戻って自首し
46名の後に続こうとします、
が・・「寺坂吉右衛門」は切腹にはならず釈放されたため、
その後は仏門に入り仏の道を歩み83歳で天寿を全うしたとされています。
ちなみに「赤穂義士の墓」については江戸の泉岳寺が創建されるより前に、
「寺坂吉右衛門」が浅野家の祈願寺である吉祥寺の住職に依頼して
創建されていたという話もあるようです。
赤穂義士のもう一つの墓と言うのがあるのをご存知方は
少ないかもしれません、江戸の泉岳寺よりも先に赤穂義士の墓が
作られていたのですが
それが
大阪の吉祥寺なのです
討ち入りが行われた当時の住職は赤穂の出身者で、浅野長矩とも親交があったと
言われています。
このように 史跡はあちこちに残っているのですが
散々引き伸びている 浪士が切腹した場所が 旧細川藩の藩邸なのですが
その藩邸跡が残っていて 私が 東京見物を 泉岳寺などで行っているうちに
浪士の切腹した場所が その藩邸跡の中に残っていると言うので
見にいったのですが
都会の真ん中にあるにも関わらず そこだけ時間が止まったような場所で
木に覆われているのです
そこを 興味半分で見に行った私は 何故か 夜中に高熱が出てうなされる事に
なってしまったのです。
もしかしたら 浪士達の魂が 私に何かを訴えたかったのかと思ってしまう出来事でした
その 場所は
高輪にある都営高輪アパート敷地内にあります
そこに 赤穂浪士忠烈の地の看板がありますが 普段は鍵がかかっていて中には入れませんが 外か様子を見ることができますので
興味のある方は 訪ねてみては如何でしょうか?
このように 都内は普段歩いていても いろいろ興味あるものが沢山あります
先日から 引き延ばしたままになっている 万世橋の秘密の地下室の謎もそのままですが
先日 銀座8丁目の弊社東京事務所の近くを歩いていると
またまた妙なモノを見つけてしまったのです。
一体何故 こんなモノがここにあるのか???????
一瞬目を疑いましたが
その
モノとは??????????
それは
明日に続く、、、。