EXECUTIVE BLOG
2022.4.30
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 上野公園にある銅像の話から
その銅像の中でも 威厳がある小松宮様の話になり 彼が訪れた旅館の話に
なりました。
しかし その旅館に工事で出入りしていた鳶が 小泉純一郎元首相のおじい様だったと
いう話は興味深い話です。
で 今日は 上野公園にある東京オリンピック誘致に尽力した方の銅像の話になります。
その方は誰か? と言う話です。
その方は安井誠一郎(1891〜1962)と言います。
明治から昭和にかけて活躍した政治家です。
第6代、第8代の東京都長官(現・東京都知事)を務め、初代東京都知事にも就任し、
戦後、東京の復興、発展に力を注ぎ、東京オリンピック(1964年)の招致にも尽力したそうです。
この方の像が 国立競技場でもなく 都庁でもなく 上野公園に在るのが不思議だったのですが
戦災で廃墟となった首都東京を復興させた人物で、東京文化会館の建設が最後の遺業とのことだという事で 上野に像が建てられたのだとおもいます。
そんなこんなで 上野公園には 色々な像があると言う話が続きましたが
先日途中になっていた野口英世の話になります。
野口英世の銅像も 本来であれば日比谷公園内に建てると言う話もあったそうなのですが
いろいろ議論が出て 最後に上野公園に決まったと言ういきさつがあるそうです。
この野口英世ですが 1000円札にもなっていますから 日本人の殆どがご存知の方だと
思いますが
この野口 何をした人??と急に聞かれると 医学の研究をした方とは すぐに答えられるとしても 何の研究だったのかと言われて見ると 詳細には答えられない方も多いかと思います。
では 一体何の研究だったのかですが
細菌学者として優れた医学的発見をした人でその発見が黄熱病のワクチンでした。
この黄熱病とは、ヒトや蚊を宿主として、蚊を媒介としてかかる病気のことです。
発症すると致死率は20%と非常に高いにも関わらず、
当時の治療法には症状を和らげる対症療法しかなく、
ワクチン接種による予防を行う必要がありました。
野口英世は研究を重ね、黄熱病が流行していたエクアドルで黄熱病の病原体の特定をし、
その結果をもとに野口ワクチンを開発したのです。
この事により当時南米で蔓延していた黄熱病を収束させ、数多くの人命を救ったのでした。
野口英世は、同僚の研究員が黄熱病をわずらって亡くなった事実を知っても、
なお黄熱病の研究に取り組み続けました。
その結果、1928年に西アフリカで黄熱病を研究している最中、
自らも黄熱病にかかり、命を落としてしまってしまうのです。
物凄い熱意を感じますね、
このように医学に生き、世界中の人類に対し大きな実績を挙げた野口英世ですが、
名言として語り継がれている言葉があります。
その中の名言の一つが
「誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ。」
と言う言葉です。
若くから医学の道を志し、探求のためにはどんな努力も惜しまないという野口英世の情熱的な性格がわかる名言ですね。
野口英世は「ライバルに打ち勝つ」というよりも、
「細菌うち勝ちたい」と思っていたのかもしれません。
そして 二つ目の名言が
「私は少しも恐れるところがない。
私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ」。
黄熱病をはじめ、
野口英世の「世界に蔓延する細菌と戦う決意」を感じることができる名言ですね。
「何かをなすために何も恐れるものはない」という強い熱意が、世界中の人の命を救うことにつながったのでしょう。
一方、この熱意があったがために、自分の命よりも研究を優先して死に至ってしまったのかもしれません。
そして三つ目が
「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。
なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ。」
と言う名言です
未来を変えようとする、野口英世の人間力が伝わる名言です。
感染病の研究に従事していた野口英世は、
「こうなってしまった現実を嘆く」のではなく
あくまでも「これからどうしていくか」ということを考える人物だったのでしょう。
常に未来に対する変革や希望を持っていた彼だからこそ、
黄熱病ワクチンの開発という偉業を成し遂げられたのではないでしょうか。
もし 彼が現代に生きていれば コロナワクチンも作っていたかもしれませんね、
日本を代表する偉人だと思います。
という事で 上野公園ネタは これでおしまいです
明日からは 五月です
50年前の5月に沖縄が日本に返還されました
返還されたあと 県民が非常に困った事が多々ありましが
その中でも
そんな事をしたら 文化まで消えてしまうのでは???
と思ってしまう改革がありました
その改革とは??????
それは
明日に続く、、、、。