EXECUTIVE BLOG
2022.9.25
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 戦陣訓の中にある
「生きて虜囚の辱めを受けず」 の話でした。
この訓令のせいで 多くの兵士が玉砕と言う名の無駄な死を選ばされたり
多くの民間人も 敵が上陸すると分かると自決していたと言う事があり
何と 理不尽な訓令だと 私も思っていましたが、
太平洋戦争以前の 日清戦争などでは 捕虜ななった日本兵が 惨たらしい
扱いを受けていたので
そのような目に遭う位ならば 先に自決を選ぶ方がマシだと言う事から
この訓令が出されたと言う話でした。
逆に 日本軍に捕らえられた捕虜は 日清 日露 第一次世界大戦においても
きちんとジュネーブ条約に守られて扱いを受けていたのです。
太平洋戦争においても同様でしたが どうしても一部守っていない軍人もいたようで
その為に 日本軍全体が捕虜に野蛮な扱いをしたかのような印象を世界に対して
植え付けられてしまったのです
A級戦犯の一人の 松井将軍や 木村兵太郎将軍などは かなりの人物であったのにも
関わらず 死刑判決が出てしまったのです。
特に松井岩根将軍は 日本のヒトラーとまで言われてしまった軍人で
いまだに 中国から非難されている 南京大虐殺を命令した大将だとの
レッテルを貼られてしまっています。
私がかつて訪れた事がある、静岡県にある板妻駐屯地資料館に、
軍服、愛用の靴といった松井大将ゆかりの品が遺族から寄贈され展示されていました。
南京攻略の功により昭和天皇より下賜された花瓶もそこに飾られていました。
南京大虐殺事件の張本人として 処刑された松井大将は どんな人物だったかを
知る人は少ないと思います。
松井石根大将は、名古屋市に生まれ、
陸軍大学校在学中に日露戦争に従軍したことがあり、
孫文や蒋介石とも親交がありました。
そこで、彼は日本と中国が連携して欧米列強の侵略に対抗する「大亜細亜主義」という思想を持つことになるのです。
彼は日本と中国は仲良くすべきだと考えていた人物なのです。
さらに
共産主義を排し、平和裏に中国の統一を促すため、奔走していたのです。
しかし昭和12年、不幸な事に日中戦争が開戦してしまい、
松井大将が描いた日中連携の理想はついえてしまったのです。
軍人ですから 国の方針には従わなければなりません、
その年の11月、上海派遣軍司令官を命じられた松井大将は、上海攻略に成功し
さらに兵を進め、12月13日、遂に中国の当時の首都・南京を攻略したのです。
この功績によって松井大将は、一躍英雄になってしまったのです。
実はこの時 私の祖父は上海上陸作戦に参加していたのでした。
自分が望んではいない戦いをしなければならなかったのですが
南京攻略後帰国した松井大将は、
静岡県熱海市に上海 南京攻略で命を落とした 日本人と中国人の為に
興亜観音を自費で建立しているのです。
日本と中国、両国民を兄弟・同胞として敬い、両軍の犠牲者を弔うためでした。
南京の土と日本の土とを混ぜて造られた興亜観音ですが、
そこには「怨親平等」、つまり「敵も味方も平等に弔う」という松井大将の強い思いが込められていたのです。
そして雨の日も風の日も、亡くなった両国の人達の為に
松井大将は山を登って観音様へお参りし、戦没者の慰霊をしたそうです。
これからも分かるように 本当に人格者だったのです。
しかし敗戦の翌年、東京裁判が開廷される事になり
日本のために命をかけて戦った方々が次々に戦争犯罪人として裁かれることとなりました。英雄として尊敬を受けていた松井大将も一転して犯罪者とされ、
功績をたたえて地元に建てられた祈念碑も、かかわりを問われることを恐れた人々によって池に沈められてしまったのです。
このような 軍人が処刑された事に対して この事を知っている中国人でさえ
涙を流したと言われています。
松井大将が命令したと言われる 南京大虐殺事件とは
本当にあったのか?? と 今でに議論されていますが
南京大虐殺事件とはそもそも何なのか??
本当に松井大将は命令を下したのか????
その真相は?????
は
明日に続く、、、。