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社長&顧問ブログ

2022.11.26

いつの時代も

 

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 江戸の歴史から 佃島 月島 石川島の話になり

月島は 今ではもんじゃのメッカとなっていて

そのもんじゃは もともとは 文字焼から来たと言う話でした。

 

今日は この月島が何故もんじゃ焼きの聖地と言われるようになったのか??

に進まなければなりませんが、

 

その前に もんじゃの元の文字焼って何??? についてです。

 

もんじゃの元祖は文字焼だったんだと 納得するのではなく、

そもそもの文字焼はいつどこで出来たのだろう???って興味が湧きますね、、

 

文字焼はどんどん焼、ぼったら焼などとも呼ばれていました。

それは、

鉄板の上に小麦粉などの生地で字や絵を書いて焼き上げる、

江戸時代から見られるお菓子だったのです。

「杓子程筆では書けぬ文字焼屋」などの川柳があるように、

飴細工や新粉細工同様、その技術力はなかなかのものだったようです。

明治時代には神田に、まるで写生画のような文字焼を焼く女性名人がいた、

などの記録も残っているそうです。

 

昔は、駄菓子屋の店先などでは、客である子ども達に焼かせることが多かったそうです。

 

かつて日本に来ていたある学者によりますと、

寺へ通じる道の途中に立った屋台の文字焼屋で、

子どもたちはコップに入った、米の粉(あるいは小麦粉)、鶏卵、砂糖を混ぜた生地を買って、巨大な傘の下に置かれた「ストーブ」で、それを焼いていて、

ブリキのさじを使い

「少しずつストーブの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたり」

して楽しんでいる様子を自分の日記に残していました。

 

この学者は、

自国での経験を振り返り、

「パンかお菓子をつくった後の容器から、ナイフで生麪の幾滴かをすくい出し、

それを熱いストーヴの上に押しつけて、

小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、

これ等の日本人の子供達のよろこびようを心から理解することが出来るであろう」

と書き残しています。

 

子どもとお菓子との関わりが、国や時代を問わないという事ですね、

 

時代時代で 色々なもので 庶民は楽しんでいたようです

 

という事で

この文字焼が発展して もんじゃになるのです

 

それが 何故月島が聖地なのかは

 

またまた 明日に続く、、、、。

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