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社長&顧問ブログ

2024.1.25

日本三大仇討ち

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 秀吉が秀次を自害に追い込んだ話から

秀次の関係者は 駒姫を含めて皆殺しにされたと言う話でした。

 

何故皆殺しにしたのかと言うと そこに遺恨が残り 将来敵討ちとして

仕返しされる恐れがあると考えた結果 根絶やしにしてしまったのです。

 

何とも言えない話ですが

 

江戸時代は この敵討ちが合法だったと言うのですから 今では考えられないですね、、

 

当時は敵討ちまたは仇討ちと言って、

主君や直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行った日本の制度だったのです。

武士が台頭した中世期からの慣行であり、

江戸期には警察権の範囲として制度化されたのです。

 

なんと日本最古の敵討ちは 西暦400年くらいの 「眉輪王の変」だと言われていますのでかなり前からの話になりますね、、。

 

ただ 鎌倉幕府により 御成敗式目が制定されて 殺人などは厳しく取り締まられていましたが 何故か仇討ちは例外だったと言うことになります。

 

「日本三大仇討ち」という言葉すらありますね

これは

武士が力を持った中世以降、親や主君の無念を晴らすための敵討は称賛される傾向にあり

その中でも特に3つの事件が美化されて仇討ちのお手本のような扱いを受けているのです。

 

この日本三大仇討ちとは、

「曾我兄弟の仇討ち」「赤穂浪士の討ち入り」「鍵屋の辻の決闘」

の3つの仇討ち事件のことを指しています。

 

民話の中の 猿蟹合戦も敵討ちの話ですから よほど日本人に受け入れられている文化なのではと思ってしまいます。

 

曾我兄弟の仇討ちは、鎌倉時代の初期に起きた事件で、

曾我祐成・曾我時致の兄弟が父親・河津祐泰の仇である工藤祐経を討ち取る

と言う話で、

この時に、「十番切」という言葉が生まれるきっかけともなりました。

 

赤穂浪士の討ち入りは、江戸時代中期頃に起きました。

「忠臣蔵」として今では 日本人の殆どが知っている事件です。

この討ち入り概要は、

赤穂藩の藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかったことが発端となりますね、

 

上野介はケガを負いますが、命に別状はありませんでした。ですが、切りかかった場所とタイミングが大問題でした。

場所は「江戸城」でタイミングは「朝廷からの使者が来ている最中」だったから

当時の将軍・徳川綱吉は大激怒して、その日のうちに浅野内匠頭を切腹させてしまい

さらに浅野家は「お家取り潰し」にするのです。

ですが、

喧嘩両成敗が当たり前だった時代にも関わらず、吉良上野介には何のお咎めもなしだったので、

これに不満を持った大石内蔵助を始めとする浅野の家臣団は、

主君の切腹から約2年後、吉良上野介邸に討ち入りして討ち取り、

浅野内匠頭の仇をとりました。

 

なお、この仇討ちに参加した47人のうち、足軽の寺坂吉右衛門を除く46人は徳川綱吉の命により全員切腹させられましたね。

 

それから三つ目の敵討ちの鍵屋の辻の決闘とは、

 

当時の岡山藩主・池田忠雄の寵愛する小姓・渡辺源太夫が同じく岡山藩士の河合又五郎に殺されたことが事件の始まりです。

又五郎は脱藩、江戸に逃れ安藤正珍という旗本に匿われます。

それで池田忠雄は又五郎の引き渡しを求めますが、安藤正珍はこれを拒否してしまうのです。

しかいこれが大問題で

この時点で大名VS旗本という構図が出来上がってしまったのです。

 

対応に苦慮した幕府は

「池田家は鳥取へ国替え」、「又五郎は江戸追放で、それを匿った安藤正珍らの旗本は謹慎」という喧嘩両成敗で事件の終息を試みようとしました。

 

この事件の後忠雄は急死し、子の池田光仲があとを継いでいたのですが

なんと、忠雄は「河合又五郎を許すな」というような遺言を残していたのです。

 

こうした事情の中、殺された渡辺源太夫の兄である

「渡辺数馬」は弟の仇討ちを決意します。

しかし、渡辺数馬は剣術が得意な方ではありませんでした。

 

そこで、義理の兄である「荒木又右衛門」に助太刀を頼んだのです。

二人は河合又五郎を探し回り、ついに居場所を突き止めます。

勘づいた又五郎は江戸へ逃れようと試みますが、数馬と又右衛門はそれを見抜き

「鍵屋の辻」と呼ばれる場所で待ち伏せします。

 

 

又五郎には多くの護衛がついていましたが、荒木又右衛門がこれを撃退し、

剣術に不慣れな渡辺数馬でしたが、弟の仇討ちの筋として又五郎は数馬が攻撃します。

 

ようやく又五郎に傷を負わせたところに、荒木又右衛門がとどめを刺し、

仇討ちが完了したと伝わっています。

 

なお、この決闘が後世に伝わり、「荒木又右衛門の36人斬り」という伝説が生まれて

これも忠臣蔵と同じく演劇や映画ドラマにもなりましたのでご存知のかたも多いかと

思います。

 

以上この三つが 日本三大仇討ちの話で 多くの国民も喝采する物語として

残っているのです。

 

こうして振り返ると 本当に敵討ちが好きな国民性なのか? と思ってしまいます、

 

では 南米の原住民はスペイン人に対して そのような感情がなかったのか???

 

が いよいろインカ帝国の話しへと繋がっていくのです

 

その話は???

 

明日に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

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