EXECUTIVE BLOG
2024.5.1
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日まではフェートン号事件の話やら 高島秋帆の話などで
毎朝早くに ブログを書いていて 読み返しもしてないので
話しがあちこちに飛んでしまっています
なかなか前に進みませんが 何故 高島秋帆の名前が 東京の高島平の元になったのか
の話をしなければなりません、
が
またまた その前に 昨日の続きとして書いていたのは
フェートン号事件で切腹した 松平康英の墓をどこで見つけたのか???
でしたので
その続きとなります。
私は大学を卒業後 あり金融機関の長崎支店に配属されました。
まさか 長崎とは 思いもよりませんでしたが
配属された以上 長崎地元の人達よりも長崎を詳しくなろうと思いました。
それまで 修学旅行でしか行った事がない街で 平和公園やグラバー邸がある事は
知っていましたが
行ってみますと 歴史もある街で 出島とか見ていると だんだん興味が湧きて来ました。
出島があるのは知ってましたし その時 日本の港に入れるのは オランダだけだと
勝手に思っていましたが
鎖国時代に、日本が入港を許していたのはオランダ・中国・朝鮮・琉球王国・アイヌだったのです。
中国までは何となく理解できますが 琉球やアイヌも特別に許可を得ていたと言うことまでは知りませんでした。
そういう事を知るうちに 長崎に寺町と言うエリアがあり
そこに古いお寺が並んでいるのです。
この一帯は 京都を思うわせる佇まいで 散歩するには良い所です
そこから直ぐ あの有名な 眼鏡橋もあります。
眼鏡橋は400年ほど前に建てられた橋ですが 昭和56年でしたか 長崎の大雨により
この話が流されたのは有名な話です
最近では 1000年に一度の大災害とかの話を耳にしますが
まさに眼鏡橋は 400年間無事だったのですが あの時の大雨による洪水で
壊されてしまったのです。
自然は恐ろしいですが その話になるとまた 話が逸れそうなので
寺町の話に 戻ります
雰囲気の良い場所で狭い路地を登ったところに 松平康英の墓を見つけるのですが
そこには 他にも アノ人に関係するものもありました
これも 又後日にするとして
この狭い坂の名前を見た時に
不思議な名前だなと思ったのです
地元の人に聞いても何故その名前になったのか?? をよくわからない方ばかりでした
それで興味を持って調べてみますと
なんだそんな事だったのか と合点がいくのです。
では その坂の名前は???
何故そう名付けられたのか??? は
明日に続く、、、。