EXECUTIVE BLOG
2024.2.13
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
澤田美喜さんが 孤児院を設立するまでの話でした。
岩崎家の長女として生まれ クリスチャンである外交官の廉三様との結婚により
海外での生活 とりわけイギリス時代の経験が孤児院設立に役立ったのだと思いますが
悲惨な戦争の為に 罪もない孤児が生まれてしまう事を何とかしなければと
言う 人間愛が根底にあったのだと思います。
今日からは 戦争の為に今まで多くの孤児が生まれてしまった事の
話しへと進む予定でしたが
もう少し 美喜さんの話を、、、。
孤児院設立後の1952年から、美喜はたびたび渡米します。
それは基金集めのための講演活動がその目的でした。
アメリカでは、混血児がアメリカに入国できる一つの運動を始めました。
あちこちで子どもがほしいと願う多くの夫婦の話を聞く機会を得たからです。
美喜は、子どもたちがこのような家庭に引き取られるような「養子縁組」制度を作ろう、と動き出したのでした。
そして幾度目かのアメリカ訪問のとき、
「移民法」という法律が作る事に成功しました。
養子希望者が住む州の議員が「養子縁組」の願書を米議会に提出することで、
子どもが欲しい人なら誰でも混血児を養子にすることができるという法律が出来たのです。
こうして「エリザベス・サンダース・ホーム」の多くの子どもたちは父親の国で暮らすことができるようになったのです。
しかし、日本はさることながら、アメリカにも人種差別はありました。
そこでさらに活動を進めて、
愛する子どもたちが本当に幸せに自分たちの人生を切り拓いていける、
差別のない国を探すことにしたのです。
そして、ブラジル中の日本人入植地を見て回り、1954年の春に、
トメアスという広大な日本人の入植地を訪れました。
そこで 美喜さんは
「ジャングルを日本人の手で50年前から開拓し、立派な道路も、農業組合もあり、
飛行場近くの十字路には高い塔のある教会もある。そして赤道直下の太陽に光る屋上の十字架を見たとき、ようやく求めている子供たちの安住の地を見つけられる希望がわいた」と後に語っておられました。
こうしてブラジルの新天地に「エリザベス・サンダース・ホーム」の新しいステージである
「聖ステパノ農場」がその第一歩を踏み出したのでした。
ここに入植した孤児たちはその後 農場を大きくしたりして
立派に成長していく事になったのでした。
本当に長い間かけて 生涯を孤児の為に美喜さんは尽くしたのだと思います。
このような 日本人は 実は美喜さんだけではなかったのですが
その話は
明日へと続く、、、。