EXECUTIVE BLOG
2024.4.29
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
東京のあのエリアの名前は 長崎出身の 高島秋帆の名前が由来する話で
では 長崎の 秋帆は 一体何をした人なのか??を知る所からの話に
続きます。
その為には
幕末に長崎で起きたフェートン号事件を知る必要があるのです。
昨日も書きましたが
フェートン号は、オランダ国旗を掲げて侵入しました。
オランダ船と勘違いした出島のオランダ商館の人は、これを出迎えます。
しかし、拉致されてしまい、フェートン号に連れていかれてしまいました。
この時長崎奉行・松平康英は、オランダ商館の人たちと、人質を穏便に返してもらう交渉をする約束をしました。
そのような約束しながらも一方では、フェートン号を抑えようと行動します。
しかし、鎖国の続いた影響で兵力は少なく、すぐに対応できなかったのです。
フェートン号側は、人質を返す代わりに、薪、水、食料を要求してきたと言うのですから
何と図々しいと思うのですが、松平康英はこれに応じる事にしたのです。
康英はここで 策をめぐらせて時間稼ぎをしながら援軍を依頼し、
フェートン号を抑えようと計画したのですが、
増援は間に合わず、その間にフェートン号は長崎を退去してしまったのです。
この事件のそもそもの原因はと言いますと
ナポレオン戦争で、フランスとイギリスが対立したことにあるのです。
オランダはフランスの属国となり、オランダの統領ウィレム5世は、この時イギリスに亡命していました。
イギリスはフランスの属国となったオランダ船を追って、日本まで来たのがこの時の
フェートン号事件に繋がるのですから
世界的に歴史の流れを見るのは非常に面白い事なのですが、
それは後世の人間が言う事であって、
当時の日本にとってはプライドを傷付けられる事件となってしまったのです。
長崎奉行で責任者だった松平康英はこの事態の責任を取り、自殺してしまうので
面白がってはならないとも思います。
そしてこのフェートン号事件後、イギリスは日本に対し、通商要求などをして来る事になったのです。
多分その時の日本側の対応が 子供じみていて
これなら強く要求すれば なんでも言う事を聞くと考えたと思います。
しかし そうなる事は 幕府側も考えていたと思います。
このフェートン号事件の時は あの黒船来航の60年くらい前の話です。
まだまだ 徳川幕府は安泰で 鎖国は続けられるとも考えていたと思います。
しかし こうちょくちょく外国船がやって来て 無理難題を突き付けられたら
たまりません
それで 幕府がある決断をすることになるのです
この決断が 高島秋帆を動かすことになり
この結果 東京のあのエリアが 秋帆ゆかりの地となるのです。
この時幕府は 何を決断したのか????
そして 秋帆は何を行う事になったのか????
は
明日に続く