EXECUTIVE BLOG
2021.9.21
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日からの続きです
昨日までは 情報をきちんと収集して分析を行った上で
対応策を練る必要があるのでは?
と言う内容の話で
幕末の黒船来航の時の話でもそれが必要だったと振り返ると思うのでした。
ペリーは「一年後再び来航する」と言っていたのにも関わらず、
1度目の来航からわずか7カ月後に再来航しました。
またもや突如現れた黒船を見て日本の役人と庶民たちは驚愕します。
日本の庶民は見物に来ることを禁止されていたのですが、再び制御不能な野次馬たちが集結しました。
本当に庶民はどんな時も逞しいと思ってしまいます。
二度目の時も望遠鏡を貸し出すビジネスや黒船見物のための遊覧船を運行するビジネスが行われ、日本の庶民の強さが現れていますね。
一方日本の首脳部である江戸幕府では1年かかる計画で軍備を進めていたので対応が追いついていませんでした。
阿部正弘は再び閣僚と大名を江戸城に緊急招集して対応策を話し合いました。
話し合いの結果、
抗戦することは諦めて阿部正弘を代表とする閣僚がペリーと交渉することに決まりました。
ペリーはアメリカ人なので英語を話します。
当時日本側にも英語と日本語を通訳できる者がいたのですが、直接の通訳はさせなかったのです。
それは江戸幕府では洗脳を防ぐためだったのです。
そのため、
ペリーと日本の役人たちが交渉する場ではペリー側からの話を英語からオランダ語に翻訳し、オランダ語から中国語に翻訳、さらに中国語から日本語に翻訳して日本の役人に伝えられ、日本側ではその逆の手順を踏んで交渉が行われました。
1度目は強気で傲慢な姿勢で日本の役人と対峙したペリーでしたが、
2度目は物腰やわらかく接待をします。
接待の場ではアメリカの技術が集約されたさまざまな工業製品を見せつけて
日本とアメリカの間に文明の格差が大きいことを日本の役人に見せつけます。
これには日本側もアメリカと戦争することは諦めるべきだということで、
どんどん開国する方向へ考えを転換していきます。
この接待を受けた日本側は、御礼の文化が根強いていましたので、
接待を受けたのだから御礼をするべきだということで、
黒船に日本産のお米を200俵(12,000Kg)贈りました。
そして黒船にお米を搬入するときにわざわざ力士を100人集めて運ばせました。
ペリーをはじめとするアメリカ人は日本の力士を見て顎が外れるほど驚きます。
アメリカの軍人が2人かがりでも持ち上げられない米俵を力士は片手に1俵ずつ持ってやすやすと運びます。
さらに余裕のある力士は米俵の上にアメリカ軍人を乗せて担いだり、ベルトを掴んでアメリカ軍人を宙吊りにしたりと個々の力の強さを見せつけます。
アメリカ軍人は気さくで「すごいすごい」と大喜び。
無邪気にも身体の大きな力士を珍しそうに観察して腕や太ももを触ったり、
おなかをなでなでして力士に興味を示したそうです。
2度目のペリー(黒船)来航では日本とアメリカの間で日米和親条約が締結されます。
条約にはペリーと阿部正弘が署名をして調印しました。
この条約が調印されたとき日本ではまだ鎖国を続けるか開国をするかの結論は出ていませんでした。
大老の井伊直弼は老中の阿部正弘に命じて秘密裏に条約の締結を強行することを指示していたのです。
この事が原因で 桜田門で井伊大老は暗殺されてしまうのですね、
国内では攘夷を叫ぶ人が多かったのですが
井伊大老は今の幕府の力では勝ち目がないと抗戦を諦めて交渉を行い
結局『日米和親条約』を締結することになったのです。
もし2度目の来航時にペリーが傲慢な強硬姿勢をとってきていたら、そして日本が抗戦という手段をとっていたとしたら、アメリカに徹底的に攻撃され、植民地にされていた可能性もあります。
当時の日本の軍事力では到底敵わなかったでしょう。
そう考えると 最初は幕府の威光だけで勝てると思っていたが
きちんと情報を分析してみると勝ち目がないと冷静に判断した
当時の大老はじめ 幕府はきちんと対応できたのではとおもいます。
これが 明治維新後の薩長は 精神論に走り
情報を分析することなく敗戦への道に進んだ気がします。
いつの世の中も情報は大切な話だという事で
この話が
先日からの続きの
NPS指導員の 驚愕の一言へと
続いていくのです
その話は???
明日に続く、、、。