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社長&顧問ブログ

2022.5.5

保科正之

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

 

昨日までは 二代将軍秀忠は 長男の家光よりも 弟の忠長を愛していたことから

忠長は 家光から恨みを買う事になり

最後は自刃に追い込まれると言う話でした。

 

恨みを持った方はいつまでも忘れる事が出来ないのでしょうね

将軍になったのだから良いのではと思うのですが

家光はそうではなかったのです。

 

同じ様に 幕末に長州から酷い扱いを受けた会津の人々は

いまだに 長州いまの山口の人とは 仲良くはするが仲直りはしないと

言っている人が多いのです。

 

そして その原因の元を作ったのが 家光の腹違いの弟の保科正之だったと言う話に

繋がって行くのです。

 

今日はその話になります。

 

父親が徳川秀忠の四男で母親が違う弟が保科正之です。

徳川秀忠が、奥さん以外の女性に産ませた子供です。

嫉妬深い奥さんを恐れて、徳川秀忠が隠してしたのです。

 

徳川家光の嫉妬深い性格はもしかすると母である江の遺伝子なのかもしれないですね。

 

そんな環境で育った保科正之もまた、徳川家光と同じく親の愛情を受けらなかったのです。

徳川家光が自分にもう一人弟がいたことを知ったのは、

自分が将軍になってからのことなのです。

 

自分と同じ境遇に育った弟・保科正之への同情もあったのでしょうか?

後に徳川家光は正之を自分のブレーンの一人にします。

 

この保科正之は頭が良く真面目で、とっても控えめな人物でした。

しかし誰からも慕われる人柄は、

ひとつ間違えると徳川家光から嫉妬される恐れもありました。

しかし

保科正之の立派なところは、どこまでも兄・徳川家光を将軍として扱ったところなのです。

どんなに周りが「将軍の弟」と扱おうとしても、

自分は徳川家光の家臣であると言い続けたことなのです。

 

のちに会津藩の初代藩主になる保科正之ですが、

その方針は会津藩の家訓にも残っています。

その内容は

「会津藩は徳川家のために働きなさい。それを守れないものは私の子孫とは認めない。」

と言うものでした。

 

絶対に徳川将軍家を裏切ってはならないと言う家訓を残したのです。

 

この家訓が 幕末になって 会津藩を縛る事になってしまう事は

この時の保科正之は考えもしなかったと思います。

 

素晴しく優秀な保科正之が 家光時代に何を行ったのか?

そして 死後百年以上経って 会津はこの家訓により

どうなったのか?????

 

それらは????

 

明日に続く、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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