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社長&顧問ブログ

2022.5.4

家光の嫉妬

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

 

昨日までは 会津と長州の因縁の話から

会津藩初代藩主 保科正之の話になり

保科正之は 二代将軍秀忠が秘密に育てた子供だったと言う話でした。

 

そして この 保科正之が残した遺言によって 最後まで会津藩は幕府と運命を

共にすることになるのです。

 

秀忠の長男の家光には 腹違いの弟である保科正之の下に もう一人

後の忠長と言う弟が居たのです。

 

子供の頃は 両親は 忠長を可愛がり後に 後に将軍家継承させようと考えていたようですが

春日局が家康に訴えて 長男家光を将軍を継ぐようにさせたと言われています。

 

両親から可愛がられ 頭脳明晰であった 忠長のその後の話が今日の話になります。

 

初代将軍・徳川家康という強力な権力者を味方にした徳川家光は、

抑え続けた弟・徳川忠長への嫉妬心を表に出し始めます。

 

川を渡りやすくするために徳川忠長が作った橋にいいがかりをつけます。

 

「江戸に敵を入りやすくするために橋を造ったのだろう!」

 

猿の被害にあっていた人たちのために、徳川忠長が猿を駆除したときも同じです。

「神の遣いである猿を殺すとは、なんて罰あたりなやつ!」

ひとつひとつの徳川忠長の行動に文句を言っては、領地を没収したり、自宅待機をさせたりしたのです。

 

このように、何をやっても徳川家光から嫌がらせを受け、

徳川忠長の精神はしだいに病んでいきました。

 

「大阪城をくれっ!」とか「もっと領地が欲しい!」とかの

その後おかしな言動が多くなったと言われています。

 

それでも一応家光が将軍になることが決まったあと、

忠長は駿河の大大名という結構いい身分においてもらえてはいました。

 

しかし、何を思ったのか忠長はだんだんと素行がおかしくなっていくのです。

大人しく、駿河で真面目に仕事をしていればいいのに、家康の遺品を人にあげたり、

家光が居住している区域で狩りをしてみたりとおかしな行動が続きます。

 

とうとう、忠長は領地を奪われ罪人扱いされてしまうことに・・・

逼塞という謹慎処分をうけてしまいます。

その後も家光は忠長に嫌がらせをつづけていたようです。

 

その後、忠長は28歳の若さで最後には自刃に追い込まれます。

 

徳川家光は長い年月をかけて、

実の弟・徳川忠長への復讐を成し遂げたことになりますね。

 

このように家光は子供の頃受けた 両親からの仕打ちをずっと恨んでいたのです。

同じ様に 幕末に長州藩から受けた仕打ちを 会津の人たちはずっと恨んでいるのです。

 

そして この恨みを買う事になってしまった 会津藩初代藩主の保科正之とは

どんな人物なのか?

 

家光の腹違いの弟は 何をしてきたのか????

 

それは

 

明日に続く、、。

高光産業株式会社 公式サイト

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