EXECUTIVE BLOG
2024.4.21
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは UENO3153 の話でした。 建物一つとっても いろいろな事が分かって面白いです
今日は 再び西郷さんの話しです。
西郷さんの銅像は、死後21年を経た明治31年(1898年)に建てられました。
当初は陸軍大将の官服姿で造られる予定だったのですが、
それが着流しで犬と狩猟に向かう姿に変更されたんです。
この背景には、勇ましい武人としての西郷のイメージを削ぎ落としたい明治政府の意向があったようです。
西南戦争を起こした「賊軍の将」西郷は、その後庶民から英雄視されて出しました。
新政府に不満を抱く庶民は、新政府と戦った西郷を応援し始めたのです。
西南戦争当時に数多く発行された錦絵を見てみますと、
庶民たちの政府への不満が反映されて、反政府のカリスマとして西郷隆盛が多く描かれているようです。
当時の指導者である、長州藩の山縣有朋や伊藤博文ら新政府は、
西郷が反政府の象徴として利用されることに危機感を抱いたのでした。
これに対処すべく、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で西郷の賊名を取り除き、正三位を追贈したのです。
手のひら返して西郷を批判するのではなく、彼は自分たちの仲間だとアピールし始めたのです。
その後、持ち上がった銅像建立計画にあたって、
軍人とはかけ離れた着流し姿にしたのは
「反政府の英雄」という要素を完全に消し去る為だったと言う事なのです。
そして この英雄を産み出したのが 先日も書きました 庄内藩 今の山形の人達だったのです。
そして 昭和51年には 山形県酒田市に 西郷南洲神社まで 山形の人達は
作ってしまうのですから
どんだけ 西郷さんをしたっていたのかが分かりますね
この庄内藩の藩士たちが 西郷さんかた直接聞いた話を本にしたのが
西郷南洲遺訓です、
では
そこには 何が書かれているのか???
それは?????
明日に続く、、、。