EXECUTIVE BLOG
2022.6.3
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 新選組のドラマから 日本史に興味を持ったと言う話でした。
ドラマでは かっこよく活躍していますが
当時は ある意味荒くれ集団でしたので
京都の人は彼らをどう見ていたのか?? とかにも興味が湧いてきます。
幕末までは 京都は ほんとにノンビリしてた町だったと思いますが
維新が近づくと 暗殺が横行したり 家が焼かれたり大変だったと思います
特に 池田屋をはじめ多くの旅館で殺傷事件が起きてたのですから
とんだ迷惑だったと思います。
しかし 他人ごとですが そういう事件があった街ですから
京都を訪れると ここで 誰々が襲われたんだな とか 見どころ満載なので
他の地域より 好きな場所であるのです。
先日書きました 三条駅前にある 高山彦九郎の銅像も 最初は
この爺さんなんで土下座してるのだろうと思ってましたが
中身が分かると なんと素晴らしい尊王の志士だと見方が変わるのです。
この銅像 爺さんが土下座してるようにしか見えないのですが
実際 高山彦九郎が群馬から京都に出てきたのは 18歳のい時だったと言うのですから
もう少し 若々しい 銅像に出来なかったのかな と思ってしまいました。
そして この銅像が 建てられたのは 軍国主義真っただ中の昭和3年だそうです
軍部が 彼の尊王思想を利用したと考えたのでしょうね
様々な逸話を残している高山彦九郎ですが、
勤皇思想を説きながら各地を旅しますが、いかんせん生まれた時代が早すぎました。
幕府からは目を付けられ、久留米で自刃をしたのもそのためといわれています。
しかし彼の思想は確実に受け継がれ、幕末へと繋がっていきます。
かの有名な吉田松陰。
実は「松蔭」の名は、実は高山彦九郎の戒名(松陰以白居士)から取られたものなのです。
いわば彦九郎の化身ともいえる吉田松陰が開いた松下村塾は、
その後、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など名だたる門下生を輩出してきました。
知れば知るほど、「土下座」と呼ぶのが恐れ多くなってくる程の影響を後世に与えていたの
です。
一方でこの像は意外と受難続きだそうで、
頭にペンキをかけられるなどの憂き目にもあっているそうです。
色々な主義思想はあるにせよ、大切にして頂きたいものですね。
これでは 幕末のテロと変わりないと思われてしまいます。
しかし 日本広しと言えども 土下座の銅像は他にはなさそうです
が
海外にある日本人が土下座している銅像があるのをしったのですが
これについては 語りたくない内容ですね、、、
で 先ほどの高山彦九郎、 京都では土下座男として最近では若い人に呼ばれているようなのですが
この 尊王の志士の 高山彦九郎が 念願かなって光格天皇との面談することになるのですが
この時 あるモノを 献上したのです
その珍しいあるモノとは???????
それは?????
明日に続く、、、、。