EXECUTIVE BLOG
2023.4.26
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
長崎の思案橋の話でした。
長崎の思案橋は 日本三大遊郭への入り口にあったと言う橋で
その時代 沢山の男性が 行くか帰ろうかと思案したことから名付けられたと言われています。
日本各地にある思案橋も このような遊郭入り口にあったことから
同じ様に思案橋と名付けられたようなのですが
同じ思案橋と名付けられてはいますが 遊郭とは縁のない 思案橋もあるのです。
その橋は 今の三県の四日市に残っています。
残っていると言っても 昔の面影はないようで
橋のオブジェと記念碑があるだけのようです。
では この橋は 遊郭も無いのに 何故思案橋と名付けられたのか???
ですが、、
歴史的に意味のある場所だったのです。
四日市の「思案橋」は徳川家康に由来しています。
天正10年6月2日未明に本能寺に滞在していた織田信長が家臣の明智光秀による襲撃を受けた時、
この時に、堺に滞在していた徳川家康は伊賀越によって伊勢に入り、
海路にて駿河に逃げ帰る折に陸路で駿河に戻るか、
もしくは海を渡るか「思案」したと言う事があり、
それで そこに有った橋がその名の由来となっているそうです。
私は この辺りの歴史は詳しくないのですが
何故家康は逃げなければならなかったのか?? と疑問が湧きますね
秀吉は その時備中高松城を確かせめていたはずで
その戦いを終わらせて 急遽光秀を討ちに とんぼ返りしてますね、
当時家康も 信長の家臣だったのですから 秀吉より近くにいた 家康が
駆け付けるでは?? と考えてしまいますが
どうも その時は 丸腰で 堺で観光をしていたと言われています
これでは 戦えないし 光秀は 家臣の家康も襲うと思い
慌てて逃げ道を思案したのでしょうが、
主君が討たれたのであれば 自分の身の安全を考えるより
例え 単身で駆け付け そこで 捕らえられ殺される方が 部下の本心では
と思ってしまいますが
家康は 機を見て敏な人物だったので まず 逃げる事を考えたのでしょうね
そして その後しばらく 豊臣の時代が続く間も
じっと 状況を見ていたと言う事になると
家康と言う人物は思慮が深いというのか 我慢強いのか 先が見える人間なのか???
と思います。
今回は 四日市の思案橋からも色々な興味が湧いて来たと言う話でした
で
もう一つの思案橋
思案橋事件と名付けれらた思案橋とは????
は
明日に続く、、、。