EXECUTIVE BLOG
2021.12.24
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日 12月23日は 上皇陛下のお誕生日でした。
誠におめでとうございました。
しかし この 12月23日の 上皇陛下の誕生日に合わせて
ある恐ろしい企てが有った事をご存知の方は少ないかと思います。
これは まだ昭和天皇がご存命の時 当時の皇太子殿下であられた今の
上皇陛下の誕生日に 日本人が一生忘れられない歴史上の出来事を
企てられていたと言う話に続かなければなりませんが
昨日も書きましたように 天皇陛下の誕生日は 祝日になっています。
ですので
令和の今の天皇誕生日は 2月23日ですね。
平成の時が 12月23日でした
そして 昭和時代は 4月19日が 天皇誕生日だったのです。
私は 学生時代毎年 天皇誕生日には 皇居迄出向いてお祝いをさせて頂いてました。
歴史を振りかえってみますと 明治天皇の話や 昭和天皇のお話は
よく耳にしますが
何故か 大正天皇の事は あまり知られていないのではと思いました。
明治天皇の時は 明治維新から日清戦争 や日露戦争などが起きて
明治天皇のその時の事が伝わっていますし
昭和天皇の時は やはり 忘れもしない 太平洋戦争との関りがいくつもありますし
戦後は 人間天皇として各地を巡幸され 国民に近づいた天皇として身近に感じる事が
出来ました。
では 大正天皇の時は どのような事が起きて 当時の天皇はどのようにされていたのか? となると なかなか答える事が出来ませんね、
大正天皇は1879年8月31日、東京府赤坂区青山御所で明治天皇の第五子、
第三皇子として誕生され、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王と命名されました。
明治天皇には正室と5人の側室との間に5男10女が誕生しましたが、
成人したのは男性は大正天皇のみでした。
しかし生まれつき病弱でしたので
1887年9月学習院に入学しますが、小学校2年で83日欠席し留年、
小学校6年生でも74日間欠席しています。
1889年、旧皇室典範により皇太子となりましたが、勉学の方は進歩を見せず1894年には健康不良のため勉学を続けることが難しいとして学習院を中途退学してしまうのです。
大正天皇は明治天皇とは異なり、立憲君主制でありながらも政治的な病気がちで
判断が不得手であったため、時の内閣に操られている印象を国民に与えていました。
1913年(大正2年)には肺炎で重体となり復帰まで1ヶ月を要しました。
1914年、日本は第一次世界大戦へ参戦しましたが
この頃から政党政治が台頭し、
政治勢力に大きな変化のあるなかで多忙を極めた大正天皇は
心労も疲労もピークに達し公務を休みがちとなってしまうのです。
そしてついに
1919年には勅語を音読することさえ叶わなくなり、政府は大正天皇の病状を公表し、
摂政の設置の準備を始め、
1921年、ついに当時20歳であった長男で皇太子の裕仁親王(後の昭和天皇)を摂政に任命し、これ以降大正天皇が政務に復帰することはありませんでした。
1925年、結婚25年目の節目を向かえた年の12月、重度の脳貧血を発症し4ヶ月もの間寝たきり状態となります。
一時は歩行も可能になるまでに回復しますが、翌年の5月に再び脳貧血の発作をおこし病床に就くことになります。
こののち病状は悪化の一途を辿り、言語障害や記憶障害、歩行困難などを次々と起こし、
秋ごろには気管支炎を発症、食欲も減退し寝たままの状態になることが多くなります。
12月に入り、宮内省が大正天皇の病状を発表すると新聞各社は号外を出してこれを伝え、その紙面には「益々御危険」「御危篤」の文字が並ぶことになりました。
そしてついに国民のご回復の願いも虚しく、
1926年12月25日午前1時25分、葉山御用邸にて実母・柳原愛子様の手を握りながら心臓発作により崩御されたのでした。
47歳、産まれたときから病気に悩まされ続けた一生だったのです。
明治天皇の誕生日11月3日は文化の日、昭和天皇の誕生日4月29日はみどりの日から昭和の日と名称を変更しながら祝日となっています。
ところが大正天皇の誕生日8月31日は祝日にはなっていませんね、
日本国憲法制定以前は天皇陛下の崩御した日が祝日となることが決まってたそうで、
大正天皇が亡くなった12月25日も1927年から1947年までの20年間は祝日となっていたようです。
その後
大正天皇の誕生日が休日にならなかったのは
休日にしようとする世論が盛り上がらなかったのが最大の理由のようです。
今回は あまりご存知ないであろう 大正天皇の話でした
そして
明日は
いよいよ
12月23日の 隠された秘密についてになるのか????????
それは
明日に続く、、、、。