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社長&顧問ブログ

2021.4.3

大西中将夫妻

 

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです

 

昨日までは

最初の特攻を命じたことによって、

「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将の話でした。

 

彼は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、

翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てたのでした。

 

「おまえたちだけを死なせはしない」

と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、

このような責任のとり方をした者は他に一人もいなかったそうです。

 

戦争が終わってからは、掌を返したような世の中が変化して、

生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、

戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっていました。

そんな中、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、

戦没者に対し、

 

「生き残ってすまない」

 

という贖罪の気持ちをみんなが抱いていたのです。

それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、

戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、

なんら変わるところがない率直な感情だったのです。

 

そういう彼らは

「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」

ということで一致した同期生たちが奔走し、

戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行う事にしたのです。

そして法要当日は

広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされたそうで、

悲しみに打ち沈む遺族の姿を見た生き残りの隊員達は

「申し訳ない」思いがさらにつのって、読経が終わると、一同、

溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、

「同期の桜」を歌ったのです。

 

その歌が終わる頃、

一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んで来たのです。

この夫人が「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠だったのです。

それから 夫人は

司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出て

マイクを手にすると

 

「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」

 

土下座して謝罪したのです。

彼女の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていくのが参列者にも

見える程だったそうです。

 

突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかったのですが

 

われに返った誰かが、

 

「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」

と声を上げたると

「そうだそうだ!」

同調する声があちこちに上がり元隊員たちに体を支えられ、

ようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにしたそうです。

 

これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩で その後 戦没者の慰霊の為に

活動をされて 横浜には慰霊碑を建てて 生涯供養をしていたのです。

 

このような 立派な軍人たちが居た事も忘れたらいけないと思う

一方で 無駄な命を落とさせた軍人もいたのです

 

それは、、

 

明日に続く、、、。

 

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