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社長&顧問ブログ

2022.5.3

長幼の序

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

 

昨日までは

会津藩と長州藩の遺恨

今でも 会津の人たちは山口県とは仲良くしないのは 何故か? と

いう話から

それは 会津藩初代藩主の保科正之の事を知らないと始まらないと言う話でした。

 

保科正之は、江戸時代の初めに稀代の名君と呼ばれた大名でした。

会津松平藩の初代藩主であり、第三代将軍・徳川家光、四代将軍・家綱の治世に貢献した人物でもあります。

正之は、二代将軍・秀忠の子である為、家康の孫であり、家光の異母弟にあたる血筋でした。しかし母が正室でも側室でもなかったため、秀忠の側近が正室・江に憚ってその存在を伏して育てられたと言われています。

 

後に保科家を継いだ正之でしたが、幕府から松平を名乗ることを推奨されても、

養育先の保科家を憚って自らその姓を名乗ることはありませんでした。

 

という事で今日は この保科正之が どのような事を行って来たのかについて

進まなければなりませんが、

 

少し話はそれで 正之の父親でもある 秀忠の話になります。

秀忠の子供は 家光と正之が居ますが

その間に 正室お江との子で 幼名国千代 後の忠長と言う人が居ました。

兄の家光が病弱で容貌が劣り、一見愚鈍であったのに対し、

忠長は眉目秀麗、才気煥発であったため、

両親の愛情は忠長に偏ったといわれています。

 

この時 家光の面倒を見ていたのが後の春日局です。

彼女は 忠長を両親が寵愛する中で 自分が家光に対して愛情を注いでいました。

 

将軍夫妻は次男に愛情を注ぎ「3代将軍は忠長」と考えるようになりました。

これに心を痛めた春日局は、密かに江戸城を出て、駿府の大御所・徳川家康に訴え出ます。家康は徳川政権を長続きさせるには内部で争いを起こさないことが肝要と考えており、

相続の明確なルール化を定めていました。

すなわち跡継ぎは、その者の賢愚壮弱よりも順序を重んじる(長子相続)ということです。

早速家康は江戸城に赴き、将軍秀忠はじめ群臣が居並ぶ前で、

「次期将軍は家光であり、弟・忠長は家臣同様」であることを示しました。

 

一説に家康は家光と忠長を呼び寄せると、

家光に対して「これへ、これへ」と手を取って上座に座らせ、

続こうとする忠長に対しては、

「恐れ多いことをするな。そこへ控えておれ」

と下段に留めて、厳然と「けじめ」を示したとも言われています。

 

この事で 三代将軍は 家光と決定されるのです。

しかし

家光にとって忠長は両親をも味方につけた強力なライバルであったわけで、

家光の心中には、いつか忠長に「意趣返し」をしてやろうという暗い思いが芽生えていたとも言われています。

 

この事と 腹違いの弟 正之との関係はどうなるのか?

に続かなければなりませんが

 

その後の忠長は どうなったのか???ですが

 

その話は

 

明日へ続く、、、。

 

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