EXECUTIVE BLOG

社長&顧問ブログ

2022.8.11

小倉から長崎へ

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは

八月九日が 長崎平和祈念日だったこともあり

平和祈念像の話になってました。

 

この像にはモデルが無いと言われていたようですが

実は 吉田廣一陸軍大尉だった方が モデルだったようです。

 

当時の日本人としては 立派な体格をしていましたので

まさに 平和祈念像のモデルになったと言われて納得してしまいます。

 

この吉田大尉は 身体が大きいだけでなく 心も広い方だったのです。

 

やっとの思いで 日本へ帰るための飛行機に乗り込みまさに離陸寸前のところ

身重の女性が居たために その彼女の為に席を譲ることにして

その為 帰国も一年も遅れたと言うエピソードが残されていました。

 

一秒でも早く 家族の元に帰りたかったはずですが このような心優しい方だったのです。

 

しかもこの事を自分で話す事はなく 彼が事故で亡くなった後 この助けられた女性が語った事で 真実が明るみに出たのです。

英雄とは まさにこのような方を指すのだとおもいます。

 

しかし 多分 皆が先を争って帰ったのではなく 他にも多くの軍人がこのような

事をしたと思います。

 

で今日の話は

原爆は 広島の次は 小倉の予定であったが 何故か長崎に変更されたと言う話になります。

 

我々は 当時小倉の天気が悪かったので 目標が長崎に変わったとずっと

聞かされていました。

 

しかし 数年前の新聞に 真相が発表されたのです。

内容は

長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、

福岡県八幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で

「コールタールを燃やして煙幕を 張った」と、

製鉄所の元従業員が毎日新聞に証言したのです。

 

米軍は当初、小倉市(同)を原爆投下の第1目標としていたが、

視界不良で長崎に変更。視界不良の原因は天候のせいだとされていましたが、

「煙幕も一因になった可能性がある」と専門家も語っています。

 

この「煙幕作戦」は

これまで、長崎の被爆者への配慮などから関係者が公言していなかったために、

実態がほとんど知られていなかったのです。

 

しかし戦後70年以上がたち、当時を知る生存者も減る中、

八幡製鉄所(現新日鉄住金)の元従業員ら3人が証言を決断し新聞に公表したのでした。

 

彼らは、8月9日は工場隣の木造事務所におり、

ラジオで「少数機編隊が北上中」と聞き、

その後、敵機襲来の警報と 同時に煙幕装置に点火したと言うのです。

そして大量の黒煙が上がったのを確認して地下壕に避難し、

暫くして事務所に戻ると

「長崎が新型爆弾で攻撃 された模様」という放送が流れたと言うのです。

従業員たちは、8月6日に広島市が「新型爆弾(原爆)」で壊滅したことを

広島経由で八幡に戻った同僚から7日ごろに聞いていて、

北九州には八幡製鉄所のほか兵器工場などもあり、

「次はこっちだ」と考え

それで あらかじめコールタールを用意しておいて

実際に爆撃機が近づいてきたときに作戦実行したのです。

 

この結果 米軍の爆撃機は 小倉に原爆を落とすのを断念して長崎に向かったわけですが

この時の従業員たちは 自分たちのせいで 長崎で多くの人が亡くなったと

ずっと後悔の念を抱いていたそうです。

 

それを 戦後も70年経った時に 意を決して新聞に発表したというのです。

 

しかし この時の従業員が悪かったわけではないと思います。

 

とにかく戦争が始まってしまったこと また 戦争には多くの犠牲が伴うという事を

あらためて考え 平和な世界になるように努力が必要ですね。

明日は

その長崎でみた

原爆の痕とは???????

それは

明日に続く、、、、、、。

 

 

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

次の記事へ