EXECUTIVE BLOG
2020.9.27
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 歴史がわかると色々な事が見えて来ると
言う話でした。
私は 今 色々書かせて頂いてますが
それこそ 歴史には興味もなく
多分歴史も一面しか見てなかったと思います。
西日本で暮らしていると
どうしても 徳川より豊臣を贔屓にしてしまいますし
長州や薩摩を英雄と思い 会津は敵方と勝手に思い込んでいました。
実際にあった話ですが
東北大震災の後 被災地を励まそうという事で
山口商工会議所のメンバーが 会津に出向き 会津商工会議所のメンバーと
会い、 激励会後 会津城前で記念撮影を行い 最後に握手を山口側から求めたところ
会津側が握手を拒否したと言う話がありました。
又 山口の米で 会津の日本酒の蔵元で お酒を造る話があった時も
相当抵抗があったようで
その時の 蔵元の主人が 言った言葉が
「仲良くはするが仲直りはしない」 と言ったそうなんです。
いまだに 根深く恨みが残っているのですね
一方 ずいぶん前にもここのブログで書きましたが 山形の人は薩摩の方とは仲良いですし 明治時代に入り 山形の人が 西南戦争の責任者でその後犯罪者扱いになっていた
西郷隆盛の復権運動を一番に行ったのです。
そして 山形には 西郷を祀る神社もあるのです。
西郷神社は
鹿児島市、沖永良部島和泊町、宮崎県都城市、そして山形県酒田市にあるのです。
九州以外では、酒田市にしかありません。
なぜ遠く離れた酒田市へ南洲神社があるのか・・・。
そこには、西郷さんと庄内藩の交わり、
そして先達たちの「後世に南洲翁の遺徳を伝えよう」という思いがありました。
その理由は
明治元年の戊辰戦争で、庄内藩は幕府側として官軍に激しく抵抗した末、
帰順降伏しましたのですが、
その時、厳しい処分を覚悟してた庄内藩でしたが、西郷さんの指示により、
公明正大で極めて寛大な降伏条件の言い渡しを受けたからでした。
一方の長州藩は 会津藩にたいしてく表現できないくらいの酷い仕打ちを
行ったのでした。
この公明正大な処分に感銘を受けたことから、
明治3年から8年にかけ、庄内藩は藩主酒井忠篤公を先頭に鹿児島を訪れ、
西郷さんから学びを得ました。
また、明治8年には旧庄内藩の中老、菅実秀が、鹿児島の武屋敷を訪れ、
西郷さんとお互いに親睦を深め、「徳の交わり」を誓い合っています。
その時の様子が銅像として残っています。
西郷さんから教えを得た旧庄内藩士たちは、学んだ全てを書き残し、
明治23年「南洲翁遺訓」として刊行しました。
そして旧庄内藩士たちは、この南洲翁遺訓を風呂敷に背負って、
全国を行脚しながら配布したのです。
こういうことがあり 本来であれば 西南戦争の犯罪人である
西郷さんは 山形の人の手によって 英雄として扱われるようになったのだと
思います。
靖国神社には 西郷さんは祀られていないと言うことをご存知でない方も多いようです
西郷隆盛は明治維新には貢献しましたが、反乱軍の将としての戦死でしたので
靖国神社には祀られなかったという事です。
なかなかITの話へ戻れませんが
大黒屋光太夫の話にも戻らなければなりませんね
明日は
シーボルトが日本に興味を持つことになったことの
一つの理由となったであろう 光太夫の話へ
続きます。。