EXECUTIVE BLOG
2020.12.23
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは
福岡にある水鏡天満宮の話。
ここは 菅原道真に関係する古い神社で そこの
鳥居に掲げられている扁額の 天満宮と言う文字は
後に 総理大臣になる広田弘毅が 小学生の時に書いた文字だという事
等の話でした。
福岡県民であれば 広田弘毅の名前を聞いた事がある方が多いのではないでしょうか?
大濠公園の横の福岡美術館入り口には 広田弘毅の銅像があるので
ご覧になった方もいると思います。
しかし 戦後75年ともなると 今の若い人にとりましては 聖徳太子も
広田弘毅も あまり変わらない単なる歴史上の一人くらいの関心しかないと思います
彼の名前が戦後有名になったのは 城山三郎が書いた小説の 「落日燃ゆ」
が出版されたからではないでしょうか?
それまでは 極東軍事裁判で戦犯として死刑判決を受け 軍事ではなく 文人であった
という事くらしか知らなかった方が多かったのではと思います
小説では 一言も反論する事なく処刑場に向かったこと その妻は 思い残す事が無いように 先に自害をされたと言う話が載っており 多くの読者が涙した事と思います。
今回は この 広田弘毅にスポットを当ててみて 何故戦争犯罪人になってしまったかを
読み解いてみたいと思います。
この話を知るうえで それまでの政治体制と軍部の力を見なければなりません
昭和11年に 226事件が起きるのですが
それまで陸軍の中には二つの派閥があったのです。
それは
天皇中心の新たな世界を夢見た皇道派と、
軍部の統制を第一に考えた統制派です。
二・二六事件は皇道派によるクーデターで、これが鎮圧された結果皇道派が排除されて
統制派と言われる派閥の発言権が強くなっていったのです。
そんな中で新しく広田内閣が誕生するのです。
そして 戦争犯罪人として扱われてしまう政策を
広田内閣は決めてしまうのですが、
それが、「軍部大臣現役武官制」と言う制度でした。
広田弘毅は 戦争反対であったのにも関わらず 戦犯扱い
される 一番の理由になってしまったのです
では 何故彼は 「軍部大臣現役武官制」を 作ってしまったのか?
好きで作ったわけでもなく 平和を愛してたから作ったのです
しかし それが後に 手かせ足かせとなり 軍部が力を持つことになり
戦争に突入してしまうのです。
これは 彼の本位ではなかったことなのです
ここが評価が分かれるところなのですが
何故 軍部が有利になってしまう政策を実行したのか??
それは
明日に続く、、。