EXECUTIVE BLOG
2022.9.6
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 日本三大怨霊の中の一人
崇徳天皇の話でした。
しかし 天皇陛下になった人物が怨霊化するとか 今では想像もできませんね
現代の天皇陛下は皆平和を愛している方々ばかりだと思います。
崇徳天皇も きっと平和を愛して国の事を考えていた一人だとおもいますが
朝廷の争いに乗じて それを利用する 権力の陰謀がそこに有ったのではと思います。
その権力闘争に巻き込まれた崇徳天皇は 讃岐に流されてしまうのですが
再び京に戻って 民の為に働こうと考えていたようです。
しかし 戻って来られては困る人々の陰謀で 讃岐から出来る事が出来なかったのです
それで どうなるのか?? が今日からの話になります、
戻れなくなった 崇徳天皇は
以後、髪も爪も切らず身も整えず、その姿は「天狗」そのものだと評されたのです。
このとき、崇徳帝は
「自分は大天狗となって、天皇は民となり、民が天下を取るようにしてやる」と言い恨みを残して没したのです。
しかし、没したのちも崇徳帝は帰京を許されず、讃岐の地で荼毘に付されたのでした。
この場所には後に白峯御陵が設けられています。
そして、崇徳帝が没した12年後から災いは始まるのです。
没後に幾多の動乱が起き、京は大火で焼け、
崇徳帝に対立した朝廷に関係する人々が次々と亡くなっていったのです。
怖れをなした後白河帝は、保元の乱の戦いの場に「崇徳院廟」を建て、
崇徳帝の直筆画が奉納されていたお堂を観勝寺として建立し、
崇徳帝の慰霊をしてきた讃岐のお寺には朝廷からの保護が与えられたのでした。
それでも京の災いは収まらず、
結局、後白河帝が亡くなるまで、崇徳帝の怨霊は暴れ続けたと言われているのです。
これまで、悲運の中で生涯を閉じた皇族は多くいて、怨霊と化した人物もいましたが、
仇と目する人物が亡くなったことで収まることがほとんどでした。
ところが、崇徳天皇はその後も多くの人々の中で恐れられ続けたのです。
没後700年も経った幕末動乱の時期も、
時の孝明天皇は大きな災いが起こることを恐れて
讃岐から京都へ崇徳帝を還御させて祭ることを決めたのです。
その後、明治天皇が建立を引き継ぐのですが、これが現在、京都にある白峯神宮なのです。
更に昭和に入ってからの1964年、白峯御陵で行われた800年式年祭へ
天皇の勅使が出向いているのです。
いまだに 崇徳天皇の怨霊を恐れているのでしょうか???
考えてみますと、
崇徳天皇が言った通り武士という民が幕府を作り天下を取り続け、
要約700年後の明治維新によってようやく帝は表舞台へ戻ってきたと考えられます。
これにより崇徳天皇の呪いは解けたのかもしれません。
現在、京都の白峯神宮は、主にサッカーなどの球技上達の神様として、
若者に人気のお宮となっています。
それで 一つ謎が解けた事があるのです
何故 現在 都内のある地に サッカーに関する建物があるのか????
それは どこにある????
そして その理由は?????
は
明日に続く、、、、。