EXECUTIVE BLOG
2022.5.29
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 家光の参勤交代の話でした。
家光と言えば 腹違いの弟が 保科正之でした。
彼は 非常に人徳があり有能な幕臣でしたが
彼が残した家訓が その後会津藩を苦しめ そして 長州との遺恨が
残る事になってしまった 話の続きがまだでした。
これを語るには 幕末の会津藩主 松平容保を見なければ分かりません。
彼は幕末の時期に 京都守護職を引き受けたのですが
そもそもこの「京都守護職」とは、
幕末の動乱のなか治安の悪化した京都や御所、二条城を警護するために
作られた幕府の役職でした。
そして実際にその役割についたのが「会津藩主 松平容保」だったのです。
松平容保は天皇や朝廷にも支持され、京都守護職として日本を守ろうとするのですが
それがやがて逆賊として扱われるようになってしまったのです。
なぜこのような「立場の逆転」が起こってしまったのでしょうか?
容保を京都守護職に指名したのは後の15代将軍徳川慶喜だったのです
しかし容保をはじめ、会津藩士たちは引き受ける気になりませんでした。
というのも、
京都守護職は引き受ければ毎年1000人の藩兵を常駐させることになっていたからです。
財政を圧迫するのは目に見えています。
会津藩の中では 絶対にこのお役を受けるべきでないと言う藩論が主流でした。
しかしそれでも容保は、守護職を引き受けざるを得なくなるのです。
その訳とは????
それが
「会津藩は将軍家を守護すべき」
という、初代藩主保科正之のつくった家訓があったからなのです。
この家訓が無ければ 容保を引き受けていませんでした。
こうして容保は京都守護職を引き受けることになるのですが、
初めは攘夷派の志士達を、武力で弾圧する気もありませんでした。
その理由は、むやみに押さえつけても人は主張を捨てることは無いと、
分かっていたからです。
しかし、1863年、三条河原に足利将軍3代の木像の首がさらされると、
容保は態度を硬化させます。
「足利将軍は天皇をないがしろにした」という批判を表したその行為を、
同じように征夷大将軍に任ぜられた徳川家への猛烈な批判として受け取ったのです。
また征夷大将軍を批判することは、任命している天皇への侮辱にも繋がると考えたのです。
それで容保は朝廷から攘夷派を一掃すべく、動き出します。
まず手始めに、八・一八政変を起こして長州藩や攘夷派公卿を追い出します。
新撰組を使い、京都市中の徹底的な警備を行い始めました。
長州藩が起こした禁門の変では、迫りくる長州藩兵を会津藩と共に駆逐し、御所を守ります。
その結果、皇室や一般市民から歓迎をされるものの、
攘夷派 特に長州藩からの深い恨みを買うことになりました。
それで
目の敵にされたのですが
会津はそのご長州からどのような目に遭わされたのか?????
それは????
明日に続く、、、。