EXECUTIVE BLOG
2020.9.15
高光産業株式会社 妹尾八郎です。
昨日からの続きです
昨日は 田沼意次が 日本を救ったかもしれない人物だと言う話でした。
後年彼は 悪役扱いを受けていましたが
その後を継いだ老中の 松平定信が精錬潔白だったために比較されてしまうのも
ありますが
歴史は 勝った方が書き換えると言うのが常識なので
松平定信が 田沼意次に対して悪人のレッテルを貼ったのかもしれません。
その松平定信のあまりの締め付け策に 町民らは不満で一杯でした。
しかし 表向きには 批判も出来ませんので
狂歌として当時歌われていたのが、
「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
と言う歌です。
そういう不満が溢れ
江戸中期、白河侯松平定信が行なった「寛政の改革」は、わずか6年で幕を閉じるのです。
民衆による強い反発によるものだったのですね。
厳しい財政改革が経済を停滞させ、文化も廃れさせたことが原因だったのです。
たとえ腐敗政治だったとしても、
生活も豊かで文化も花開いた以前の華やかな「田沼時代」が恋しいと、
失脚した老中田沼意次を民衆は懐かしんで寛政の改革と田沼の腐敗政治をくらべて風刺して狂歌に託していたのです。
定信は 海外に目を向けるとは言語道断と言う人でしたから
蘭学の研究自体も禁止させるような人でした。
もし 田沼ではなく 松平定信が先に老中になっていたら
幕末の日本は 米国に占領されていたかもしれないのですから
歴史の流れと言うのは面白いと感じるのです。
そこで 田沼の話に戻り、彼と縁が出来た林子平の話になります。
田沼の時代は 広く海外にも目を向けていましたので
林子平の研究には反対はしていませんでした
林子平と言う人物は、
1785年に「三国通覧図説」を、その3年後の1788年には「海国兵談」を世に問うた江戸時代後期の人物です。
余談ですがこの頃は天明時代ですので 日本国中 天明の大飢饉の時でしたね
あまりの凶作に人肉まで食べたと言われています。
「三国通覧図説」の三国とは朝鮮と琉球と蝦夷のことを指しており、
その時代において外国からの日本への侵略を防止するために、それらの地域の重要性を説いた著作でした。
「海国兵談」は実効的な海防の在り方を提唱した内容で、どちらの書も実際の黒船来航の60年以上も前にその脅威に警鐘を鳴らした先進的なものです。
子平は1775年に長崎へ赴くと、その地でオランダ人を通してロシアの南下政策を知るのです。
四方を海に囲まれた日本の海防の重要性にその時に気付いて地理や兵学を学ぶことを決意しました。
子平はその後二度に渡って長崎に遊学し、また江戸においては大槻玄沢、桂川甫周などの著名な蘭学者に教えを請い世界の情報を得るのでした。
この時出会った 桂川甫周が ペリー来航時の危機を救うことになる
一人になるのです。
この名前は覚えていてください。後に重要な働きをすることになるのですよ。
今回の主役である子平が生きた江戸後期は、
世界的にもロシアの南下政策に他の列強各国が脅威を感じ始めた時代でした。
このことから蝦夷地域が注目を集めた時期でもありました。
こうして子平は「海国兵談」の執筆を始めました。
日本が江戸の平和を享受している間に、他のアジアは次々と列強諸国の植民地にされており、ゆくゆくは日本への浸食も予想されることを世に訴えようとしたのです。
子平は、1785年に「三国通覧図説」、続く1788年に「海国兵談」を出版しました。
その林の慧眼には驚かされますが、これだけ重要な示唆を含んだ内容でありつつも、
田沼の後の松平定信が老中の時には注目されるどころか幕府から疎んじられ、
この重要な書が発禁処分に処されたという悲劇の書となったのです。
この悲劇の書が 80年後に日本を救うことになるのですが
そこまでには まだまだ長い話が続くのです。
田沼意次が重商主義者でなかったら
林子平が奇人と言われようが 海外に目を向けていなかったら
80年後のペリーに対抗できなかったかもしれないのです
が
その重要な書は 後の 松平定信の命により
全て焼却処分されてしまうことになるのです。
ここで 日本の運命は一貫の終わりか??
歴史の神様は凄い一手を用意しているのです
それは??
明日に続く、、。