EXECUTIVE BLOG
2022.11.29
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 徳川家康が 江戸に入った時の話で
家康が三河の出身だったことも あり 都内では三河の名残があり
駿河台もその一つだと言う話でした。
ここで 興味を持ったのは 当時江戸は 一地方だったので
それまでは 京都が国の中心でした。
一介の三河の人間が 江戸で幕府を開く事で
江戸が日本の中心となって行くのですが
江戸城内では三河弁がいわば公用語だったのか?と思ってしまいます。
もしそうだとすれば、江戸の言葉のルーツは、三河の言葉ということになるのだろうか?
と興味が湧きます。
しかしそれでは全国の大名と言葉が通じなくなりますので
「武家共通語」と呼ぶべきものが発達したと言われています。
諸国の大名は参勤交代で江戸に来る際、多くの家臣を従えていました。
彼らが江戸で滞在するのは江戸屋敷であり、屋敷には大名の奥方や、
常駐する家臣たちもいたのです。
彼らは必要に応じて幕府や他家とやりとりをしなければなりませんでしたが、
御国言葉では通じないし、江戸時代初めに大名が共通語的に用いていた上方の言葉も、
秀吉の時代が遠ざかるにつれて、使える者が減っていったようです。
そこで発達したのが、
方言を使わずにコミュニケーションできる「武家共通語」だったという事になります。
江戸の言葉は大きく、山の手言葉と下町言葉に分けられていました。
山の手とは江戸城周辺とその西側の高台の山の手台地を指し、
幕臣をはじめとする武家の屋敷が多かったエリアです。
一方の下町は低湿地を埋め立てた低地で、職人や商人が多く暮らしたエリアとなります。
つまり山の手言葉は武家の言葉として発達したもので、
下町言葉は庶民の言葉といわれています。
私が東京で住んでいる地域は いわゆる下町なので 下町言葉をよく耳にします
とてもキレキレの感じがする言葉使いで聞き慣れているのですが
どうも 山の手言葉を聞くと 上品な感じがしてむずがゆくなってしまいます。
武士や知識人が使ったこれら山の手言葉は、明治時代にも「東京語」として生き続け、
やがて標準語のベースとして採用されたのです。
明治維新の中心であった長州もさすがに 長州弁を標準語にするわけには
行かなかったのでしょう、
江戸時代とは言え 初期の東京には100万人以上の人が 江戸弁を使っていたわけですから
それを無理やり変える事は考えなかったのでしょう、
しかし 長州人は 彼らなりにプライドがあったとおもいます。
幕府を倒して天下を獲ったのは自分達だと思っていたに違いありません
そこで 長州弁は標準語に出来なかったが
ある事をしたのです、、
それは????
明日に続く、、、、。