EXECUTIVE BLOG
2021.3.14
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日からの続きです
昨日までは 私が取得した特許の
情報仲介装置の話で これを ポケットティッシュ配布に応用すると
どのようなビジネスモデルになるか と言う話で
本日は その具体的な内容の話に進まなければなりませんでしたが
昨日 このビジネスモデルの話で神戸に行ったのですが
そこで 聞いた話についてです。
またまた 話は逸れてしまうのですが
そこで 聞いた話と言うのが
兵庫県に属している淡路島は 実は徳島県だったと言う話だったのです
今では字は 淡路島ですが 徳島寄りに考えてみますと 阿波の島 ともとらえる事が出来るのです。
なるほど 淡路島は阿波の島であったならば 確かに 淡路島は徳島県に属して良いのではと思いますが
何故 淡路島が兵庫県になったのか??
淡路島は、古代以来四国と同じ「南海道」の一部で、
また江戸時代は徳島藩(蜂須賀家)の領地だったから阿波(徳島県)とは完全に一体の地域だったのです。
こういう歴史的経緯からみれば、普通に考えれば、淡路島は今ごろ徳島県になっていなければなりませんね。
それがそうならなかったのは、明治初期に起きた「稲田騒動」という馬鹿げた暴力事件のせいだったのです。
江戸時代、淡路島は徳島藩の一部ではあったのですが、
藩主蜂須賀家の筆頭家老だった稲田家が事実上統治していたのです。
淡路島の稲田家の家臣というのは「本藩」である徳島の城下では徹底的に差別されていて、「島の者」呼ばわりされ侍あつかいもされなかったそうなのです。
こうした差別構造があったために、江戸時代の阿波(徳島)と淡路の藩士は同じ藩でありながら仲が良くなかったそうです。
徳島本藩と淡路の対立の構図は、幕末の争乱時に鮮明になります。
徳島本藩が佐幕派に与したのに対し、淡路の稲田家は倒幕派についたからです。
結果としては倒幕派が勝って明治維新を迎えるわけですが、
勝者に味方した淡路側の家臣たちは、明治新政府に自分たちの地位向上を熱心に働きかけたのです。
それは淡路稲田家を徳島藩から独立した藩として認めてほしいと言う要求でした。
この淡路の「独立運動」に腹を立てたのが、徳島本藩の人たちです。
本藩の一部過激派藩士たちが淡路の洲本城下や、徳島にあった稲田家の屋敷や領地などを一斉に襲撃して焼き討ちにし、ほとんど無抵抗だった淡路側に多数の死者と負傷者が出たのでした。
明治という新しい時代に逆行した、前時代の差別意識丸出しの事件で、
明治新政府も事件に好意を持たなかったのです。
事件に関わった徳島本藩の者は厳しく処罰され、首謀者は切腹となったのですが、
これが「稲田騒動」の経緯なのです。
そして新政府は稲田家に対しても、これ以上淡路島に住み続けるのも宜しくないだろうと、北海道開拓を言い渡したのでした。
その際、稲田家とその家臣を、徳島藩から引き離して「兵庫県貫属士族」という身分にし、さらに淡路島自体も廃藩置県後に兵庫県に編入することで淡路島は兵庫県の一部になったのです。
淡路島が兵庫県になって果たして良かったのかは分かりませんが、
江戸時代いっぱい対立感情をいだいていた徳島と一緒になるよりは良かったのかもしれませんね。
260年続いたいがみ合いというのは、時代が変わってもそう簡単に解消するものです。
これと似た話が 高知にもありますし
茨城県と滋賀県が仲が悪い
山口県と福島県もいまだにしっくりいかないとかです
明日は どこに話が続くのか、、、
明日に続く、、、。